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下山事件 (1/4ページ)

週刊実話

 1949(昭和24)年といえば、日本が太平洋戦争に敗北して4年目の年。未だ東京は空襲の爪痕がいたるところに残り、天皇に代わってGHQ(連合国最高司令官総司令部)が間接統治していた時代で、政治では第3次吉田内閣(民主自由党)が発足していた。当時の社会の動きといえば労働争議が多発し、不可解な事件が連続して起きていた。「下山事件」(7月5日発生)「三鷹事件」(7月15日発生)「松川事件」(8月17日発生)だが、これらの事件の背後には、GHQ内の権力闘争が底流にあったことが後年、明らかにされている。

 「三鷹事件」「松川事件」についての詳細は省くが、「下山事件」の結末はどうなったのかといえば、この事件こそGHQの組織にあった「キャノン機関=米軍の謀略機関」や「CIC=米軍の対敵防諜部隊」が登場し、また、旧日本軍の特務機関員や中野学校卒業生の関与が噂され、法医学も巻き込んで死体の「生前轢断(他殺)」説と「死後轢断(自殺)」説がマスコミの取材を、ヒートアップさせてしまった事件として、今も生々しく伝えられている。また、「犯人」が消えてしまい、真相がブラックボックスに閉じ込められていることから、「未解決事件」として見知っている方も多いのではないだろうか。

 筆者がこの事件に関心を持ったのは、十数年にわたって追跡してきた「中野学校卒業生の戦後史」がきっかけであった。事件の核心に触れたのは卒業生の1人を取材した時で、本人は仮名(既に88歳で逝去)を条件に取材に応じてくれた。前沢義昭(仮名)の徳島の自宅で行われた取材で、彼はまず、中野学校出身であることを告げた。
「中野は42年7月に三丙(入学は41年9月)で卒業しました。初任地は関東軍情報部のハイラル支部で終戦まで満州各地の支部を転属し、最終任地はハルビン特務機関で階級は大尉でした」

 戦時中の活動について質問したが、答えは「特務工作」と語るだけで、工作の詳細は語ってくれなかった。
「いろいろありまして、中野校友会の会員にも入っていません。仲間で私がここ(徳島)に住んでいることを知っているのは、秋田に住むCIC時代の友だけです。CICは『下山事件』とも関係のあったセクションなんです」

 筆者は前沢の言葉に驚愕していた。元中野学校卒業生と下山事件の関係。

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