梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下) (2/6ページ)
「さて、どうしようか?」
紛糾する軍議(イメージ)。ああでもない、こうでもない……。
さっそく幕府では善後策が協議されましたが、公式史料『吾妻鏡』の記述を読む限り、あまり遠征に熱心ではなかったようです。
「越後のゴタゴタなんかで鎌倉の御家人を死なせたくないから、さっさと現場に始末させろよ」
【原文】……なんぞ一人といへども當參の壯士を失ふべけんや。早く在國の士に仰せらるべし……
※『吾妻鏡』建仁元1201年4月3日条
それじゃあ早速……と思ったら、現場にこれと言った人材が見当たりませんでした。
この時ちょうど越後の守護であった佐々木三郎兵衛尉盛綱(ささき さぶろうひょうえのじょうもりつな※1)は時の将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)公のご機嫌を損ねて上州礒部郷(現:群馬県碓氷郡)に謹慎していたのですが、急ぎ盛綱を現場復帰させることにしました。
(※1)この時は出家して「西念」と号していますが、便宜上「盛綱」で統一します。
「越後の一大事とあらば、謹んで拜命致します!」
歌川国芳画・佐々木盛綱肖像(部分)文政年間
かくして復帰した盛綱は、名誉挽回の好機と越後・佐渡・信州(現:新潟県&長野県)から大軍勢を動員。4月8日には鳥坂へ到着したのでした。