梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下) (4/6ページ)
「あなや!」
倒れ込んだ坂額御前が清親の郎党らに生け捕られてしまうと、それを知った城方は総崩れとなり、小太郎資盛も慌てて鳥坂城から脱出。その時、先祖伝来の名刀を紛失してしまったそうです。
その後、小太郎資盛の行方は杳(よう)として知れず、ここに越後の名門・城一族は滅亡してしまったのでした。
鎌倉そして甲州へかくして囚われの身となった坂額御前は、どうにか歩けるようになってから鎌倉に護送されたのですが、6月28日に将軍・頼家公の前へ引き出されると、「越後の女傑を一目見よう」と御家人たちが押しかけて、市場のような騒ぎになったと言います。
京都建仁寺蔵 源頼家公肖像、江戸時代
幕府の重鎮たちに囲まれた中、坂額御前は頼家公の前へ進み出ると、微塵も怯まず、命乞いもしなかったそうです。
「此度兵を興せるは、大恩ある景時様の仇に報いんがため。たとえ兄・長茂ともども武運拙く敗れようと、何一つ恥じることはございませぬ!」
その堂々たる態度は敵ながら天晴れ、と多くの者を感心せしめたでしょうが、その中に甲斐国(現:山梨県)の住人・阿佐利與一義遠(あさりの よいちよしとお。浅利とも)という武士が、頼家公にお願いしました。