梶原景時の仇討ち!鎌倉時代「建仁の乱」で活躍した女武者「坂額御前」の武勇伝(下) (3/6ページ)

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「いつ、どこで戦いましょうか?(※当時の合戦は、予め軍使を交わし、お互いの日程調整をするのが作法でした)」

盛綱からの書状を受け取った小太郎資盛・坂額御前らは、圧倒的少数であったため「籠城」を選択。元より勝利は望めない以上、鳥坂の天険を恃みに「一矢報いん」と決したのでした。

決戦・鳥坂城!坂額御前の武勇

さて、いよいよ盛綱の大軍勢が鳥坂城めがけ、攻め寄せて来ました。

城方(しろかた。守備軍)は雨のように矢や石を飛ばして決死の抵抗を試み、盛綱の嫡男である佐々木小三郎兵衛尉盛季(ささき こさぶろうひょうえのじょうもりすえ)はじめ多くの将兵を負傷させるなど、大いに苦戦せしめたそうです。

月岡芳年「芳年武者无類 阪額女」明治十八1885年

そんな中、坂額御前は矢倉(やぐら。櫓)に上って矢を放ち、その腕前は

【原文】百發百中の藝ほとほと父兄に越ゆるなり……(中略)……これ(矢)に中(あた)る者死せずといふことなし」

※『吾妻鏡』建仁元1201年5月14日条

という父(城資国)や兄ら(城資永、長茂)も顔負けの凄まじさで、盛綱の郎党たちも多く討ち取られたそうです。

しかし、信州の御家人である藤原四郎清親(ふじわらの しろうきよちか)は鳥坂城の裏山に回り込み、高いところから矢倉の上に奮闘している坂額御前に狙いを定め、彼女の両脚を射抜きました。

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