池山隆寛が今明かす秘話「恩師・野村監督とプロ野球黄金時代」 (3/3ページ)

日刊大衆

93年から97年まで、ヤクルトと巨人が交互に優勝。90年代のセ·リーグの中心はこの2球団だった。

池山 当時は、ことあるごとに野村監督から「巨人に勝たないと優勝はない」と言われていました。 野村監督と長嶋監督とのライバル関係もあったし、選手のほうも“負けたくない”って、かなり意識していた。ミーティングで綿密に作戦を練って、「どうにかして巨人に勝とう」とチーム一丸となって燃えていましたね。

 ただ、対戦のときは毎回、斎藤(雅樹)さん、槙原(寛己)さん、桑田(真澄)の先発三本柱が投げてくる。いつも、この3人との対決だから、「またかよ、勘弁してくれよ!」って感じでしたね(笑)。

 巨人の三本柱は、本当にすごかった。斎藤さんなんて、全部真っすぐに見えるけど、中には同じところから曲がってくるボールがあるんですから。20勝していたときなんて、まったく手が出なかった。

 三本柱の中では、桑田が一番やりやすかったかな。コントロールが抜群によかったので、逆に狙い通りに打てたんです。ただ、シュートを覚えてからは、簡単には打たせてくれなくなりましたけどね。

 監督だった長嶋さんとは、あまり接点はなかったんですが、毎年秋に開催されていた東西対抗では、ご一緒していました。そのとき、「(長嶋氏の長男である)一茂君と同い年なんです」とあいさつすると、「そうか、一茂と同じなのか~」と答えてくれる。結局、この同じやりとりを5年間繰り返しました(笑)。

 ヤクルトで一緒だった一茂は、ほんと練習しなかったですね(笑)。僕らも練習嫌いでしたけど、それ以上。パワーはすごかったんですよ。でも、ウエイトトレーニングで、ダンベルを1回上げると「もう、いいや」って帰っちゃう。

 僕とはグローブを作ってくれる職人さんが一緒だったこともあって、「こんないいグラブなのに、なんで捕れないの?」なんて、からかっていましたね。

 現在発売中の『週刊大衆』7月8日号では続けて池山隆寛のインタビューを掲載している。

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