一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】 (3/6ページ)
災難続きの元治元年、禁門の変で朝敵にされ、馬関戦争で欧米列強に敗れ……
明けて元治元1864年7月19日、京都を逐われた長州勢力が巻き返しを図ろうと家老の福原越後守元僴(ふくはら えちごのかみもとたけ)が来島又兵衛(きじま またべゑ)や久坂玄瑞(くさか げんずい)らと共に決起。
蛤御門の変。御所に対して銃口を向けたことから、長州藩は賊軍となってしまった。
御所の門前(蛤御門、禁門)を主戦場としたことから後に「蛤御門の変(禁門の変)」と呼ばれたこのクーデターは、会津&薩摩の両藩によって鎮圧され、長州藩は「朝敵」とされてしまいます。
朝敵すなわち賊軍ですが、この日本国において天朝様=天皇陛下と朝廷≒日本全国を敵に回した者が(赦される以外で)生き延びた例しはなく、まさに絶体絶命の窮地です。
かくして江戸幕府の主導によって長州征伐の段取りが進められる中、同年8月5日~7日にかけて、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4ヶ国連合との戦争(馬関戦争)が勃発。完膚なきまでに叩きのめされた挙げ句、馬関海峡の要衝である彦島(ひこしま。現:山口県下関市)を占領されてしまいます。