一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】 (4/6ページ)
前回は(占領されたが)引き上げてくれたからすぐ取り戻せたものの、今度は賠償の一環として租借(実質的な植民地化)するつもりのようで、彦島に強固な軍事基地でも置かれようものなら、馬関海峡を封鎖するどころか、逆に瀬戸内海の出入りを欧米列強に抑えられてしまいます。
「何としてでも、彦島だけは死守(奪還)しなければ!」
経幹は列強連合軍に対して彦島の返還交渉に臨みますが、関ケ原以来ずっと窮乏している長州藩は要求される賠償金も満足に支払えない上、奪われた領土は無償で返還せよ、なんて条件では、いくら何でも無理があります。
そこへ「どけ、俺が話す」とばかり出て来たのが、奇兵隊の創設者として知られる高杉晋作(たかすぎ しんさく)。彼は長州藩家老・宍戸備前守親基(ししど びぜんのかみちかもと)の養子(宍戸刑部-ぎょうぶ)と身分を騙って連合軍との交渉に臨みました。
馬関戦争の責任はすべて幕府に押しつけ、ひとまず窮地を切り抜けた長州藩だが……「我が長州藩は、あくまで幕命に従って攘夷を決行した(させられた)のであるから、賠償金は責任者である幕府が全額を支払うべき。