一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】 (1/6ページ)

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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】

前回のあらすじ 一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】

時は江戸時代末期、長州藩(主君・毛利家)の柱石として治政に手腕を発揮し、各地を奔走していた岩国領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)は、米海軍提督ペルリの「黒船来航(嘉永六1853年6月)」を目の当たりにして衝撃を受けます。

欧米列強に対抗できる人材育成を急ぎながら、着々と迫りくる幕末維新の嵐を感じずにはいられませんでした。

欧米列強との戦争に京都の政変……攘夷の風雲吹き荒れる文久三年

さて、文久三1863年5月、35歳となっていた経幹は幕命によって朝廷警護のために上洛、堺町御門の警備に当たっています。その功績なのか、この頃から「監物(けんもつ)」の官位で呼ばれています。

同じころ(同年5月)、国元では長州藩が幕命によって攘夷(外国人に対する武力排除)を決行、馬関海峡(下関)を封鎖して航行するアメリカ・フランス・オランダの船舶に対して無通告で砲撃しました(下関事件)。

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