歴代総理の胆力「犬養毅」(1)歯に衣着せぬ毒舌家

| アサ芸プラス
歴代総理の胆力「犬養毅」(1)歯に衣着せぬ毒舌家

 大正・昭和初期の戦前を通じてのわが国の政党内閣は、原敬に始まり、以後14年を経、この犬養毅(号・木堂(ぼくどう))の昭和7(1932)年5月15日の「五・一五事件」での暗殺をもって終焉することになる。その後、軍の力の台頭を許し、太平洋戦争終結の戦後になって、改めて議会制民主主義が確立されることになる。

 その意味では、原から犬養までの9代の首相は、それぞれの力量をもって、置かれた環境の中で精一杯「民主主義」を模索したことは認めざるを得ない。犬養はそうした戦前の「最後の政党内閣」の総理大臣であり、憲政擁護運動をもって尾崎行雄(号・咢堂(がくどう))とともに「憲政の神様」と称されたのだった。

 この「憲政の神様」2人は、ともに「演説の達人」としても知られ、東京朝日新聞の論客で知られた記者当時の中野正剛(のちに衆院議員。割腹自殺をした)いわく、「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜(そうや)に松籟(しょうらい)を聞く」と評した。すなわち、犬養のそれは一言一句にムダがなくの理路整然、迫力十分ということだったが、一方で歯に衣着せぬ毒舌家でもあった。このあまりの毒舌家ぶりに、犬養の友人たちは犬養の千代夫人に対し、「(犬養が)出掛けるときには、必ず口を慎むように言ってくれ」と忠告したものだった。毒舌が、無用な政敵をつくるとの心配からであった。

 さて、その犬養はジャーナリスト出身の政治家だった。福沢諭吉の慶應義塾を中退すると、報知新聞記者を手始めに、東海経済新報の発刊、朝野(ちょうや)新聞記者などを経て、政界入りしている。東京府会議員を経、明治23(1890)年7月に第1回衆院選挙に初当選、以後、昭和5(1930)年の18回総選挙まで連続当選を果たした。ジャーナリストから政治家への転身ぶりは、原敬のそれに酷似していると言ってよいのである。

 衆院議員となった犬養は、改進党、立憲国民党、革新倶楽部といったように、長く万年野党で過ごした。その犬養は正義感、義侠心に富み、無欲の人、高節の士としても知られ、金権腐敗まかり通る中で、万年野党党首として政党資金を集めることもしなかった。ために、妻の千代があちこちからカネを工面、一方で自然と接するのが好きで建てた静岡県の二宮、伊豆の別荘も結局は売り払い、党資金に回したのだった。

ピックアップ PR 
ランキング
総合
社会