哲学者・三木清の「人生論ノート 死について」から考える生と死

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哲学者・三木清の「人生論ノート 死について」から考える生と死

哲学者・三木清(1897年-1945年)の著書の中で、最も読まれているのが「人生論ノート」だ。1938年から1941年まで「文学界」で掲載されたエッセイをまとめた著書である。「死について」に始まり、「幸福について」「懐疑について」……などと23のテーマについて分かれている。どのテーマも、生きていく上で誰もが直面するものである。その中でも、初回のテーマは「死について」である。どうして最初に「死について」なのか、彼は「死」をどのように捉えていたのか、そしてそこから現代社会をどう捉えるか、紐解いていきたい。

■人生論ノートの「死について」が書かれた当時の時代背景

『近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた』という書き出しで本書は始まる。「死について」が書かれたのは、前年(1937)年に勃発した日中戦争が拡大の一途をたどっていた年であった。このとき、三木は41歳であり『愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに從つて、死の恐怖は反對に薄らいでゆくやうに思はれる』とも記されている。時代背景に加えて、近親者の死に遭遇する場面が増えたことが、このテーマから始まる動機になっていると考えられる。

■生と死は表裏一体

三木は本書の中で『今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病氣の恢復)としてしか健康を感じることができないのではなからうか』と考えている。また、別の著書では、『生に対して絶対的な『他者』である死こそ、生を全体的に眺める唯一の立場』と記している。病気になって初めて健康のありがたさが分かるように、死の立場からこそ生が全体的に把握できるというのが彼の考えだ。

■死が恐ろしいのは、死そのものではなく、死の条件によってである

現代に状況を置き換えてみる。前年度から感染が拡大している新型コロナウイルスは、未だ終息が見えない。本書が書かれた時代と状況は違えども、死がより身近になり、不安が広まっている世相である。病気や死を「新型コロナウイルスの蔓延する社会」だとすると、まさに「病気の恢復(=新型コロナウイルスの終息)でしか正常な世界を感じることができない」世の中となっているのではないだろうか。

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