貧乏な子供の私は、昨夜がクリスマスイヴだったことを知りませんでした――。
Jタウンネットが、皆さんの思い出に残っている、親切にしてくれたあの人へ「『ありがとう』と伝えたいエピソード」を募集したところ、大阪府の70代男性O岩さん(仮名)から、一通のメールが届いた。
それはO岩さんがまだ小学6年生だった、昭和30年――1955年のこと。
家は貧しく、父と病弱な母、弟のため、高校1年生の兄とともにO岩さんは新聞配達の仕事をしていた。
真冬の早朝から新聞を配ることは大変で、あかぎれた手が千切れるように痛かったという。
一番辛かったのは、冬の夕刊配り。まだ手元に新聞が残る午後6時頃、通りかかった家から夕飯を支度する匂いと湯気が漂って来た。
それに彼と同い年くらいの子が母に甘える声まで聞こえてきた時は、涙が止まらなかったという。
新聞配りは、どうしようもなく辛かった......。でも、そんな彼には、ひとつだけ忘れられない思い出がある。
それは12月25日のことだった。
「配達員のぼくへ...」まだ日本が「戦後」と呼ばれていた昭和30年。多くの国民が貧困生活を強いられる中で、私の父親がシベリア抑留から帰って間もない我が家は極貧だったと記憶しています。
父親は起業するもうまくいかず、高校1年の兄と小学6年の私が新聞配達をして、病弱の母と弟を含めた家族5人の生活がやっと成り立つ有り様でした。
新聞配達にはつらい思い出ばかりです。
雨の日は合羽を着ているものの新聞を濡らすまいと必死で、配り終わる頃には全身ずぶ濡れでした。真冬の早朝4時の朝刊配りは、あかぎれた手が千切れるように痛く、ウーッと呻きながら耐えるしかありませんでした。
最も辛かったのが冬の夕刊配りでした。半分残っているのに真っ暗な午後6時頃、通りの家から夕飯支度の匂いと湯気が漂って来るんです。私と同い年くらいの子供が母親に甘える声が聞こえてきた時は、涙が止まらなかったのを覚えています。