82歳筆者が考える、「子どものスマートフォン利用」...私的コミュニケーション変遷史より (2/7ページ)

Jタウンネット

筆者が新制都立高校1年生となった頃、旧制歯科専門学校の教授を辞職し、自宅で歯科医院を開業した父が営業用に引いた電話が我が家の電話時代の始まりだった。

従って、それ以前の時代に、小学生であった筆者が利用した通信手段といえば、手紙、葉書のみである。これらは本来、宛先(受取人)が特定されているのが普通である。その時代には、今の子どもたちのように、スマホで特定の受取人以外に、SNS等を介し何処の誰か分からぬ相手と繋がることなど決して無かった!と思うかも知れぬが、その答えは"no"である。

筆者の子ども時代には、戦地で戦っている兵隊さん達を慰労するために、慰問袋というものが存在し、その中に子どもたちの書いた手紙や葉書を入れることが奨励された。これは将に子どもたちから不特定多数の何処の誰かも不明な大人たちに向けて発信されたメッセージであることは間違い無い。

しかし、現代のように、ネット犯罪に繋がるような恐れが、それらのコミュニケーションにあったとは思えない。それは時代も、時代だし、第一、戦時下のあらゆるコミュニケーションには軍部による厳重なフィルターが掛けられていた。作戦上の理由から、特定の地名(特に、戦地)が洩れるようなことは最も警戒されていた。

プライベートな情報発信では無いが、この時代に筆者が関わった最も印象的なメッセージ発信の思い出は、太平洋戦争が転機を迎えた昭和18年(1943年)4月に発生した大事件に関係している。それは大日本帝国海軍第27代連合艦隊司令長官山本五十六大将が飛行機で前線視察中ブーゲンビル島上空において、敵米軍機により撃墜され、戦死したことである。

第26、27代連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将は、戦死後元師に特進した。彼はハーバード大学にも留学し、欧米事情にも詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していた。しかし、自分の意見が聞き入れられず、日米開戦が準備されると、ハワイ奇襲作戦を立案、成功させ、また日米間に於ける国力の差を冷静に分析し、「短期決戦・早期和平」という現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、海外においても広く賞賛されている。

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