82歳筆者が考える、「子どものスマートフォン利用」...私的コミュニケーション変遷史より (4/7ページ)
筆者も、引き続く父の郷里への縁故疎開(家族単位の疎開)に先立ち、国民学校5年生の夏頃、山形県山中の小さな町の旅館に学友と共に集団疎開させられた。自宅を出発する際、郵便葉書と封筒、便箋などを持参させられ、健康状態などをこまめに報告するよう両親から言い含められた。それは筆者ばかりでは無く、疎開していた子どもたち全てが同じだった、と思う。
この時代には、子どもたちの窮乏状態を心配した親たちが、必死の思いで入手したお菓子などを小包で我が子に差し入れたりしたが、結局、それらは全て開封され、集団生活を理由に全員に分配されて、ホンのひとかけらが受取人の子どもの口に入るだけであった。
それでも、担任教師や、子どもたちの日常生活の面倒を見るため、新たに募集された、いわゆる「寮母」さんたちから、小包を受け取った子どもに対し、「おやつを美味しく食べられて、有難うございました」という趣旨の返事を発送人の親に返信するように薦められたが、この場合、書いた手紙や葉書を書き手がそのまま投函することは許されず、必ず寮母さんや担任教師の手を経ねばならなかったから、責任者や監督者に都合の悪いことは検閲により当然回避されていたであろう。
事実、家が恋しくなり、迎えに来て欲しいなどという内容が発信されることは事前検閲により親元には届かないように管理されていた。
後から考えてみれば、こうした管理された状況下でしか、当時の国民学校生徒たちの情報発信-受信はあり得なかった。
つまらないエピソードを付け加えると、当時国民学校5年生(11歳)の筆者は手紙の宛先に、普段は口に出して呼ぶことも無い親の"姓名"様を宛先として記入することは理解していたが、便箋の中でも同じように表記して、親から宛先以外の中身では、普段のように「お父ちゃま」「お母ちゃま」と呼んで良いのだ、と教えられたりしたこともあった。
敗戦で、戦争が終わり、中学生となったが、余り手紙や葉書を書いた覚えも無く、無論、当時の中学生が電話を気軽に利用する機会など事実上無かった。友達とは顔を合わせて交流するだけであった。