2020年東京オリンピック・パラリンピック大会のホストタウンの舞鶴市、本市初オリンピックメダリストが“友情の証”に銀と銅のメダルで作った「友情のメダル」を展示! (4/6ページ)
両選手は、長時間にわたる激闘の疲労のために
「日本人同士で争うことはない」と、2位・3位の順位決定戦を
辞退しました。
同記録の場合、現在は試技数で順位を決めますが、当時は競技を
続けて順位を決定しなければなりませんでした。順位決定を辞退
した同記録の両選手は、試技数に関係なく二人とも銀メダルのはず
でしたが、日本側は4m25cmを1回目でクリアした西田選手を
2位、2回目で越えた大江選手を3位と届け出て、これが公式記録と
なりました。
翌日の表彰式で、2位の西田選手は「次の東京大会で頑張って
ほしい」という激励の気持ちから、大江選手を2位の表彰台に上げ、
自らは3位に立って銅メダルを受け取りました。
ベルリンから帰国した後、二人は晴れの舞台で同じ記録を出した
“記憶”と“友情の証”を残すために、銅と銀のメダルを半分に割って
つなぎ合わせた、世界に一つだけの「友情のメダル」を作りました。
旧制舞鶴中学校(京都府立西舞鶴高等学校)から慶應義塾大学に
進学した大江選手と西田選手の出会いは、昭和7(1932)年4月の
第8回関東選手権大会でした。早稲田大学の西田選手は、在学中の
同年7月に開幕した第10回オリンピック競技大会(1932年ロサン
ゼルス大会)に出場し、銀メダルを獲得するなど、棒高跳のエキス
パートとして知られていました。二人は切磋琢磨する宿命の
ライバルでありながら、大学の垣根を越えて兄弟のような親しさが
生まれていました。
1936年ベルリン大会の後、大江選手は東京で開催予定の第12回
オリンピック競技大会をめざし、昭和12(1937)年9月の第10回
日本インターカレッジで4m35の日本記録を樹立。昭和33
(1958)年に破られるまでの21年間、日本記録保持者でした。
しかし、大江選手が金メダル獲得を夢見た第12回オリンピック
競技大会(1940年東京大会)は、昭和13(1938)年、第二次世界
大戦のために中止が決定。