83歳筆者の〈極私的鑑賞ノート〉(1)...戦中・敗戦直後の思い出の映画たち (6/7ページ)
その後の米ソ冷戦の激化でも想像出来るように、米国の占領下にあった日本では、ソ連による赤化が極端に増幅されて警戒された背景がある上に、昔の満州からの引き揚げ者が、筆者の身の回りにも少なく無かった。実際、筆者の家にも歯科医専時代の父の後輩に当たる歯科医の未亡人と二人の幼子が満州から命からがら引き上げて来られて、一時、我が家の一室に滞在されたこともある。そうした方々から聞いた実話やマスコミの報道でも、ポツダム宣言受諾後に日ソ不可侵条約を一方的に破って満州国や、いわゆる北方領土にも攻め込んできた上、略奪や暴虐の限りを尽くしたソ連軍やソ連兵に対する印象は最悪であったのは当然で、しかも武装解除した日本軍兵士を労働力として強制的にシベリア地方に長期間抑留し、使役した状態が、その当時も依然として継続状態にあったことが更に印象を悪化させていた。
個人的にはロシア音楽やバレー、ロシア文学には、いわゆるヨーロッパのそれらとは何処か異なるオリエンタルな親近感を感じては居たのだが、これらの歴史的事実を忘れ去ることはなかなか困難な状況にあった。
勢い世の中の風潮も、あらゆることが米国を向き、米国を目指すのが普通であった。
話は変わり、今の中学生はどうか知らぬが、当時中学生だった筆者の時代は、中学生が友人同士でも、保護者の同伴無しで映画館に入場することなど通常はあり得なかった。そんな訳で米国の総天然色映画「ステート・フェア」を観に連れて行ってくれたのは、三年ほど前に99歳の天寿を全うした母の妹で、女医をしていた叔母であった。
日本で初の、いわゆる総天然色(カラー)映画は、筆者が確か高校生頃観た「カルメン故郷に帰る」であるが、今回、本コラムで取り上げている時代よりもっと後なので、その辺りはまた、続編中で触れてみたい。また、イーストマン・コダック社(現、コダック社)によるイーストマンカラーと称されたカラーの国産映画「地獄門」はそれより後であった筈だが、当時その色彩などが、ちょっとした話題となった。実は、この映画を筆者は、当時五反田にあった(株)東洋現像所(現(株)イマジカ)の試写室で観ている。今はもう此の世に無いが、当時この会社の専務を務めていたのは、筆者の義理の従兄で、つまり本家の長女である従姉の連れ合いという関係があった。