火葬が一般的であるにも拘らず敢えてそれを拒否した人達が歴史上存在した (1/2ページ)

心に残る家族葬

火葬が一般的であるにも拘らず敢えてそれを拒否した人達が歴史上存在した

火葬が非一般的な葬法である時代・文化圏で、極めて例外的に火葬を望み、叶えられた人物については、特に支配層に属する人々を中心に、何人か報告されている。例えば、江戸時代初期の将軍夫人であった江姫や、中国の清朝初期の貴族であった呉洪裕などである。

■当時一般的とされていた埋葬を拒んだ人とは

一方、江姫や呉洪裕とはいわば逆に、火葬が一般的とされる時代・文化圏で、例外的に火葬を拒否する例も、なかったわけではない。特に中世日本の上流層の人々の中には、そうした例が散見される(但し中世日本で「火葬が一般的だった」のは、天皇や上流貴族のような、極めて高位の人々に限られており、より身分の低い人々も考慮に入れると、決して「火葬が一般的とされる社会」ではないが)

平安貴族には、火葬に否定的な人物も決して少なくなかったことが、当時の記録や伝説などから読み取れる。そうした、火葬に否定的だった可能性の高い人物の中には、伝説の中で「復活して読経をしたいので、火葬しないで欲しい」と言い残して亡くなったとされる、藤原義孝がいる。

例え伝説であっても、この「死後の、再度のこの世への復活」を信じて火葬を断った人物が、平安貴族社会にいたということは、大変興味深い。このことは、前近代の日本、更には東アジアの仏教信仰が、常に火葬に肯定的だったわけではないということを、大変わかりやすく伝えている例だといえよう。

■藤原定子や藤原城子など

他にも平安時代には、特に皇后に、火葬拒否と推定されるケースが何人か報告されている。

一条天皇の皇后で、清少納言の主君だったことでも有名な藤原定子が亡くなった際、彼女の遺体は、「築土」という、泥で塗り固められた壁を持ち、屋根が架けられた建物に安置されたという記録がある。

また、三条天皇の皇后であった藤原城子も、定子同様、築土に安置された。定子の遺体が築土に安置される運びとなったのは、彼女の希望によるものかどうかは、不明である。ただ、娍子の場合は彼女本人の意思であったという。

このように、天皇に嫁いだ女性のうちの何人かは、自分の死後に火葬されることを、断った。

「火葬が一般的であるにも拘らず敢えてそれを拒否した人達が歴史上存在した」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る