民俗学者の折口信夫が記した「死者の書」に勇気づけられた劇作家の加藤道夫 (2/7ページ)
まるで、
潜(かず)きする海女が二十尋(はたひろ)・三十尋(みそひろ)の水底
から浮び上がつて嘯(うそぶ)く様に、深い息の音で、自身明らかに目が
覚めた…
郎女が見た夢は、死して後、再びよみがえったことを意味しているのだろうか。
■加藤道夫の生い立ちと劇作家への道のり
加藤道夫は、著名な地質学者・加藤武雄の三男として生まれた。七人兄弟のうち、男の兄弟はすべて父同様、理系の学校に進んだが、加藤は受験に失敗し、慶應義塾大学の法科に進んだ。英語が得意だった加藤に、両親は外交官の道を期待していたが、加藤は文学や演劇に関心を持つようになり、文学部に独断で転じたという。それは幼少期から、大変な恥ずかしがり屋であったにもかかわらず、俳優に憧れていたこと、そして自宅の庭の片隅で、印象に残った映画の1コマを何時間も演じるなどのひとり芝居をしていたということから、ある意味「必然」の選択だったのだろう。
そして後に俳優・演出家となった芥川比呂志、小説家で文芸評論家の中村真一郎らとの交わりの中で、加藤は劇団を組織し、フランス語劇を演じるようになっていった。
■戦地で学んだ死と生
そんな加藤は26歳となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19)年に、通訳官としてフィリピンのマニラ、インドネシアのハルマヘラ島、ニューギニア西部のソロンに赴いた。そこで彼はマラリアや栄養失調で死に瀕することになる。その際、彼はジャン・ジロドゥーの戯曲、アルチュール・ランボーの詩集、そして折口信夫の『死者の書』を常に持ち歩いていたという。殊に『死者の書』は加藤にとって、「あの死のファンテジイ(原文のまま)は不思議に僕に安堵感を與へるものだつた。或ひは僕は『死者の書』を通して死の世界と親しく交感し合つてゐたとも言へよう。僕は目前に死と向ひ合つてゐたが死への恐怖は殆どなかつた…(略)…夢想と幻想だけが衰へた僕の生を意味づけるものだつた」とかたった。
幸いなことに加藤は、敗戦後もなお、通訳官としてアメリカ軍との交渉に当たることとなり、特別に食料を支給されていたため、無事、生きながらえることができた。