「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」、F1黎明期のホンダは世界とどう戦ったのか? (2/5ページ)

イキなクルマで

エンジンは二輪で実績のあったマルチシリンダーとし、V型12気筒、しかもそれを横置きするという非常に斬新なアイデアでまとめられました。エンジンを搭載してもらえるコンストラクターはブラバム、クーパー、ロータスに絞られ、1963年の秋にはロータスに決まりかけていました。しかし1964年に入り、ロータスの創設者コーリン・チャップマンより「お付き合いできなくなった。あしからず」という電報が入り、事態は急変。一方的な「婚約破棄」を告げられたホンダは参戦を諦めるか、自社でシャシーをつくり参戦するかという選択を迫られましたが、結局は後者を選択。急きょ、シャシーの自社開発が始まりました。ちなみにチャップマンがホンダエンジンを断ったのは、コベントリー・クライマックスとのエンジン契約の関係があったからとされていますが、真相はわかっていません。

■ 【1964年】RA270、疾(はし)る。そして、スターティンググリッドへ

ホンダは1963年にはエンジンをすでに完成させており、次は走行テストを待つのみでした。クーパーT53を改良してテスト車両にする構想もありましたが、当時のホンダが持つ「隙あらば新しいことをやってみたい」という企業風土がそうさせたのか、シャシーを自前で製作してしまうのです。こうして出来上がったRA270は、荒川の河川敷にあったテストコースや当時出来上がったばかりの鈴鹿サーキットで精力的にテストをこなします。しかし前述のようにロータスから突然エンジン供給キャンセルの連絡が入ると、ホンダは自前でレース用シャシーを製作することを決意。RA270のデータをもとにして製作される予定だったRA271が、エンジンテスト用ではなく実戦用のシャシーとして設計されることになりました。

RA271のデビュー戦は、1964年8月に行われたドイツGP。その前月にはシェイクダウンをすでに済ませていたということなので、わずか5か月という超短期間で製作されたことになります。東洋の小さな島国から参戦したこのマシンは大きな注目を浴び、あのチャップマンさえも熱心に観察していたといわれています。

RA271は、この後も同年のイタリアGP、アメリカGPに参戦。

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