「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」、F1黎明期のホンダは世界とどう戦ったのか? (4/5ページ)

イキなクルマで

こういった中、自前でエンジンを用意できるフェラーリやホンダは有利という見方が強かったのですが、ふたを開けてみるとホンダは開発の遅れが問題としてあがっていました。こうしてマシンが完成したのは、シーズンの折り返し地点が過ぎた第7戦イタリアGPの前でした。

RA273は、最終戦メキシコGPまでの3戦に出走。やはり車両の重量がネックとなり、まともな戦力になることは難しいと考えられていました。しかしこの年はどこも戦闘力が万全でないマシンが多かったので、とにかく完走すれば上位に入るチャンスはあったのです。実際、最終戦ではギンサーが4位に入賞し、波乱のシーズンは幕を閉じました。

■ 【1967年】体制を一新、英国スタイルでマシンを仕上げる

1967年に入ってもRA273で戦っていたホンダ陣営ですが、これとはコンセプトが反対になる軽量・コンパクトなコスワースDFVがグランプリを席巻し始めます。この事態に苦慮した現場は、ドライバーのジョン・サーティースの紹介でシャシーコンストラクターであるローラ・カーズの門を叩きます。ローラはわずか6週間で、インディカーであるT90をベースとしたRA300を製作。1967年型RA273で使われていた改良タイプのエンジンとギアボックスを搭載し、70kgもの軽量化を達成していたのです。

こうして挑んだ第9戦イタリアGP、このRA300はサーティースのドライブによってデビューウィンを達成。ホンダは通算2勝目、そして新規定になって初の優勝という快挙を遂げました。その後、最終戦メキシコGPでも4位入賞という結果を残しています。ちなみにこのマシンを「ホンドーラ(ホンダ+ローラ)」と呼ぶ人も多いですが、最初にそう呼んだのはドイツのプレス関係者だったといわれています。

■ 【1968年】空冷vs水冷論争から生まれた2台のマシン

1968年の第2戦スペインGPより、ホンダはニューマシンであるRA301を投入。それはRA300で実行できなかった対策項目を、確実に具現化したモデルでした。ネックであった車重は、モノコック部材をより軽量なマグネシウム合金に変更することで大幅な軽量化を実現。

「「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」、F1黎明期のホンダは世界とどう戦ったのか?」のページです。デイリーニュースオンラインは、クルマの歴史F1ホンダ茨城県カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る