品川区の東海寺にあった原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園に移された理由 (3/6ページ)

心に残る家族葬

代表理事を務めた行宗一(ゆきむねはじめ、1913〜2008)は原爆投下当時、一兵隊として、広島城に近い中国103部隊(歩兵11連隊)2階の内務班で、ガリ版を切る準備をしていた。ふと、B29の爆音がした。そこで兵舎の窓から覗くと、外にいた兵隊が「パラシュートが落ちてくる」と騒いでいる。危険を察知した行宗はとっさに内務班中央部に駆け戻った。その時、白い閃光が炸裂したのである。

木造2階建ての兵舎はバラバラに潰れてしまった。材木の山から抜け出した行宗はとっさの思いで立ち上がった。何ひとつ、地上に立っているものはない。広島城の天守閣もどこかに吹き飛んでしまっていた。「暑いよ」「苦しいよ」「助けてくれ」と叫ぶ兵士の声がする。彼らは原爆爆発後、衣服に燃え移った火を消そうと地面を転げ回っていたが、程なくして、動かなくなってしまった。行宗ら、生き残った兵士たちは燃えさかる兵舎を後に、外に出た。無事ではあったものの、行宗はその後、髪が抜け落ち、皮膚には斑点ができた。終戦後の9月には白血球が750に減り、42度の高熱に苦しんだ。死を覚悟した行宗だったが、健康を取り戻すことができた。戦後は農林省(現・農林水産省)で働き、各地を転々とした。1950(昭和25)年に、生まれ故郷の東京に戻ることになった行宗は、原爆の後遺症で苦しむ、東京に移住した被爆者の身の上がずっと気がかりだったという。経済安定本部での仕事の傍ら、新聞や雑誌に被爆者の記事が出ると、すぐに訪ね、彼らの無事を確認し、仲間の輪を広げていったという。そうした中、行宗は広島の同じ部隊で被爆した、映画監督の田坂具隆(たさかともたか、1902〜1974)、元厚生次官で社会福祉家の太宰博邦(だざいひろくに、1910〜1994)らと共同で「東京原爆被害者の会」を結成。1956(昭和31)年に『被爆白書』を作成した。会はその後、「東京都原爆被害者団体協議会(呼称・東友会)」に発展した。

過激化・先鋭化を辿り始めていた学生運動などに代表される「政治の季節」であった1965(昭和40)年当時、「東友会」は、原爆関連の追悼行事には一切参加せず、東海寺で、犠牲者の冥福を祈った。行宗が言うには、「原水爆禁止運動」の諸活動には、「被爆者の心情を理解しようとする人間愛と平和の哲学」が欠けていると思われたからであるという。

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