品川区の東海寺にあった原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園に移された理由 (4/6ページ)

心に残る家族葬



■元々広大な敷地を所有していた東海寺だったが…

「原爆犠牲者慰霊碑」が建てられていた品川の東海寺だが、江戸幕府3代将軍家光(1604〜1651)が自ら「万松山(ばんしょうさん)東海寺」と命名し、自身が強く慕う禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう、1573〜1645)のための寺として、1639(寛永16)年に建てさせたものである。

全盛期の東海寺は江戸時代きっての名刹とされ、4万7000余坪(約15万7000平方メートル)の広さを誇った。1716(享保元)年には寺内の塔頭(たっちゅう、寺内に建てられた小院)が17院にも及んだ。また、寺内に茶人の小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579〜1647)設計の庭園もあったことから、歴代将軍が鷹狩のたびごとに訪れたり、町人たちが四季折々の風情を楽しむ品川名所のひとつとなった。

幕府が倒れ、明治時代になると、廃仏毀釈の機運から、寺院そのものの規模が縮小されていった。更に「品川」は京浜工業地帯発祥の地でもあったことから、敷地内に道路や鉄道が通り、果ては工場も建てられるに到り、かつての壮大さは失われ、今日に至っている。

■原爆犠牲者慰霊碑の移設は宗教的な理由と維持管理の難しさから進められた

このような「背景」を有する東海寺に祀られていた「原爆犠牲者慰霊碑」だったが、近年、寺院の境内に慰霊碑があるため、原爆死没者名簿への記名を宗教上の理由で断念する遺族が多くなり、無宗教での追悼式を願う声が増えてきた。さらに被爆者も高齢化して、慰霊碑の維持管理を被爆者ではない人、そして東京都内の自治体の協力を仰ぐ必要が生じてきた。そこで東京都福祉保健局の協力で、国の慰霊事業として国と東京都から助成を受け、被爆者と遺族、都民からの募金によって、都内の公立公園への移転事業が進められたのである。
「品川区の東海寺にあった原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園に移された理由」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る