鎌倉市由比ガ浜にある複数の遺跡から大量の遺骨が出てきた理由を考えてみた (3/4ページ)

心に残る家族葬

そうした人々のうち、当時の慣習では、身内以外の者が葬送儀礼を行うことは禁忌とされていたことから、身寄りのない人の遺骸は路傍に放置されたままだった。そのような遺骸・遺骨をまとめて集め、埋葬や供養を行ったのが、「土地の者」ではない人々や、極楽寺の僧侶たちであった可能性は極めて大きい。

■災害で亡くなった幼い子供は災いをもたらすと信じられていた

ふたつ目は、そうした遺骸や骨は、ただ「放置」されているばかりではなかった。本来親よりも長生きすべき子どもが、不慮の事故や病で先に死んでしまうことを逆縁(ぎゃくえん)と言う。こうした子どもたちは家や集落が有する共同の墓地に埋葬されずに村境など、集落の境界にまとめて葬られた。それは逆縁の魂は成仏できない不浄の霊とされ、邪霊となって災いをもたらすと恐れられていたからである。更に逆縁でなくとも、先に述べた災害などで、不本意な形で亡くなった人々の魂も同様に不浄、邪霊視されていたのだ。

■臭いや衛生上の問題

第三の理由としては、当時大災害が頻発していたことにより、引き取り手がなく、路傍に放置された遺骸の腐臭が凄まじかった。それゆえ、幕府は鎌倉の中心部にそのような遺骸の埋葬を禁止したという。そのためどうしても、弱者救済を積極的に行なっていた極楽寺近辺、所有者が明確に存在するわけではない「浜」の周辺地域などに埋葬されたことなどである。

■最後に…

今日、由比ガ浜近辺には、当時の暗鬱な、さながら地獄絵図にも似た状況は全く残っていない。そしていくら「散骨」や「樹木葬」を望む人々が増えてきているとはいえ、身元不明の遺体や骨があちこちに放置され、腐臭を放っていたり、「周縁」とされた地域の「穴」に、無数の遺骸が投げ込まれていたということに対し、我々の多くは正直、驚いてしまうだろう。そして、「かわいそう」「哀れ」と思うかもしれない。しかし「当時」は、遺体を含めた「穢れ」への恐れは、今以上に強かったことから、そのような「取り扱い方」が当たり前だったのだ。

我々が立ち止まって考えねばならないことは、「死」は必ずしも「きれいなもの」ばかりではない。醜く、禍々しく、恐ろしい側面もある。その冷徹な現実をありのままに受け入れ、その日その日を悔いなく生きる。

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