鎌倉市由比ガ浜にある複数の遺跡から大量の遺骨が出てきた理由を考えてみた (2/4ページ)

心に残る家族葬

同時に先に挙げた遺跡から鍛治関連の遺物が多く発見されていることから、単なる「海運の町」「商業の町」、または「武家の町」のみならず、必ずしも「土地の者」とは限らない、「よそ者」「流れ者」でありつつも、専門技術を持つ職能集団が多く住んでいた、独特の「場所」だったことが推察されている。また、和賀江嶋の維持・管理を担っていた極楽寺(ごくらくじ)は1259(正元元)年、律宗(りっしゅう)の僧・忍性(にんしょう)によって開かれた寺だが、癩宿(らいしゅく)・薬湯室(やくとうのむろ)・坂下馬療屋(さかのしためりょうのおく)などが寺内に設けられ、当時の仏教界では顧みられることのなかった病人や体の不自由な人々などを含む周縁の人々への救済活動が行われていた。それゆえ、この一帯は「鎌倉」でも独特の様相を呈していたのだ。

■非常に盛んだった由比ヶ浜になぜ集団墓地が生まれたのか

このような由比ヶ浜に多くの墓地遺跡が点在していることから、先に述べたように、人が死んだ後、遺体を火葬し、骨を寺や共同墓地内の墓所の奥深くに納める習慣がなかったことを物語っている。

由比ガ浜南遺跡の発掘調査の際、無数の人骨を投げ入れた穴が多く発見された。ある地点で発見された人骨の総数は3000体以上に及び、15歳以下の幼小児骨が40%を占めていたという。発見された人骨は頭部と下肢がほとんどで、骨の縁には犬の噛み跡が見られた。そのことから、当初は死体がどこかに放置され、手などの細い骨は早い時期に犬が持ち去ってしまった。そして残った頭部や下肢が集められて、穴に投げ入れられたと考えられている。

現代の我々は、当時の葬法や死生観、そして由比ガ浜近辺に多くの人骨を投げ入れた穴が存在したのかについて、その理由を完璧な形で知ることはできない。しかし、考えられることはいくつかある。

■大風雨や洪水、地震、大火などが相次ぎ、多くの犠牲者を生んだ

ひとつ目は、1215(建保3)年の大風雨、1237(嘉禎3)年の洪水、1241(仁治2)年の火災と大地震、1247(宝治元)年、1251(建長3)年の大火、1257(正嘉元)年の大地震など、1200年代の由比ガ浜周辺で立て続けに災害が発生し、多くの人々が犠牲になった。

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