鎌倉市由比ガ浜にある複数の遺跡から大量の遺骨が出てきた理由を考えてみた (1/4ページ)
現代は人が亡くなると葬儀が営まれ遺体は火葬される。遺骨は代々続く墓所に納められる。昨今では墓所を「永久」に、子供や孫の代まで継承しないことを前提とした、海洋への散骨や樹木葬を望む人も珍しくない。しかしそれは、古くからある墓を子孫が続く限り守り続けることが「当たり前」と思われてきたことから、「新しい」あり方だと見なされているだけだ。一方、中世では遺骨を寺院なり共同墓地に納め、そこに石碑を建て決まった時期に墓参するということばかりではなかった。その一例として、おびただしい量の人骨が発見された、神奈川県鎌倉市由比ガ浜の中世集団墓地遺跡や由比ガ浜南遺跡を取り上げる。
■政治的には非常に重要な役割を果たしてきた鎌倉
そもそも「鎌倉」は、海を擁する地域だったことから、古代律令制当時から鎌倉郡衙(ぐんが。役所)が置かれるなど、政治的に重要な場所だった。その後、源頼朝が1180(治承4)年10月に、大倉(おおくら)に居館を造営し、幕府を開いた。それに伴い、幕府の諸機関を設立。鶴岡八幡宮の遷座や、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)などの寺院が建立された。
更に道路を整備し、御家人の宿館を設けるなど、京都と二分する「都」が整えられた。しかも鎌倉の中心部から見て、南西部に位置する由比ガ浜の東側には、北条氏の執権政治の時代、1232(貞永元)年に開かれた港・和賀江嶋(わかえのしま)が存在していたことから、首府「鎌倉」そのものの重要性が増すことになる。更に鎌倉幕府滅亡後の室町時代には鎌倉府が置かれ、その繁栄は継続したが、15世紀半ばの戦国時代には衰退してしまう。
■由比ヶ浜は海運や商業が盛んで、宗教的な特徴もある独特な場所だった。
中世集団墓地遺跡が散見する由比ガ浜は、西は稲村ヶ崎、東は飯島崎までの浜地一帯を指す。中世期には「前浜」とも呼ばれていた。しかも中世三大紀行文の『海道記』(かいどうき、1221頃)に、「由比浜(ゆいがはま)には数百隻の船、家並の続く姿はさながら大津や淀(よど)のよう」と記されるほど、多くの人、文物が行き交う港町として興隆を極めていた場所でもあった。