天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 海部俊樹・幸世夫人(下) (1/2ページ)

週刊実話

 「クリーン」イメージで出発、内閣支持率も高かった海部政権ではあったが、政権発足1年目、突然の舞台の暗転を余儀なくされた。
 折から、東西冷戦雪融けの象徴であったベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体といった激動の中で、イラク軍のクウェート侵攻に始まった湾岸戦争に直面した。ここから小派閥出身ゆえ政権基盤の脆弱さを暴露、最大派閥・竹下派の意向に翻弄され続け、独自色をまったく放擲してしまったのが暗転への舞台裏だった。

 海部首相は湾岸戦争に際し、当初、米国の強い要求により米軍など多国籍軍に90億ドルを拠出、その後、再度の要求を呑んで総額130億ドルものカネをつぎ込んだ。しかし、米政府と自民党の一部から「カネだけでなく人的貢献もすべき」との突き上げを受けると、こんどは掃海艇の派遣を決めるといった具合で、政権の主体性はズルズルと後退した。
 そうした中で、竹下派内で剛腕ぶりを発揮し続けていた当時の竹下派会長代行にして幹事長の小沢一郎が主導し、自衛隊を国連のPKO(平和維持活動)の「協力隊」という名目で、PKO協力法案を提出することになった。だが、この法案の中身がなんとも杜撰、さらには、自衛隊の海外派遣を危惧する世論の反対も根強く、法案は衆院段階で廃案を余儀なくされるなど、海部政権はもはや主体性を完全に失っていったのである。
 同時に、竹下派内も小沢氏の“突出”ぶりから大揺れ。結局、海部政権では自民党はもはやもたずということで、竹下派主導で政権に幕が引かれ、後継首相に宮澤喜一を担ぐという手に出たのだった。

 その宮澤政権にも不満だった小沢は、「もはや政権交代可能な新党を結成するしかない」として、のちに新進党を立ち上げることになる。そこではナント、自ら失望したハズの海部を党首にという“奇策”に出たのだった。自民党内からは、「一体、海部はどうなったんだ」の声も飛んだのである。
 この時点、平成7年(1995年)1月の通常国会では、折からの「阪神・淡路大震災」関連が焦点だったが、晴れがましくも衆院予算委員会質問のトップバッターに立った新進党党首の海部には、もはやかつてのような弁舌のキレはなく、存在感再び、もなかった。

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