田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(2) (2/3ページ)

週刊実話



 しかし、田中の凄いところはここからであった。もとより、理屈と主張だけで交渉が決着するとは考えていない。打った手は、なんとも大胆なものであった。
「繊維問題でこれ以上こじれたら、日米関係を悪化させる。理不尽ではあるが相手の要望も呑まねばならん。その代わり、日本の業界を救済する」として、3000億円で日本国内の繊維業界の損失を補償、交渉を決着させてしまったのだった。

 業界からは米国の主張を受け入れたことで猛烈な批判が噴出し、佐藤内閣にはその後の「沖縄返還」問題があったことで、野党からは「イト(糸)でシマ(島)を買った」の声も出た。この田中と米国側の交渉に同席していた当時の通産官僚は、のちに次のように“田中交渉術”に舌を巻いたものだった。
「とにかく、弁舌の鮮やかさには度肝を抜かれた。理解力、弁論の切り口、どれをとっても当代一流だと思い知った。歴代の通産大臣では、ピカ一だった」

★佐藤首相の調整不発

 日米繊維交渉が落着した翌昭和47年(1972年)1月、佐藤首相は田中、福田の両大臣を同行させ、サクラメンテでのニクソン大統領との首脳会談に臨んだ。「沖縄返還」への最後の詰めである。しかし、田中、福田をあえて同行させたことで、これには次のような憶測の声があった。

 「佐藤は表向き『両君は君子の争いをせよ』と言っていたが、その胸中が福田にあることは誰もが察していた。ために、日本を離れたかの地で、まず福田、次に田中への禅譲という調整に動くと思われた。実際に調整話があったのかは不明だが、すでに走り始めている田中は聞く耳を持たなかったともっぱらで、両者の“握手”はなかったとされている」(同行記者)

 この日米首脳会談の席上のことを、田中は帰国後、秘書の佐藤昭子に「ニクソンは、オレを隣にすわらせてくれたぞ」と、いかにも嬉しそうに述べている。田中にとっては、米側が“ポスト佐藤”は田中と踏んでいるとの印象を得たことにほかならなかった。

 訪米の最後の日はロサンゼルスだったが、こんなエピソードがある。前出の同行記者の弁である。
「同行記者団はロスの夜をストリップ劇場で楽しんだのだが、踊り子の艶技“泡踊り”が佳境に入った頃、なんと田中、福田の両人が秘書官を連れて入ってきた。
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