三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード (3/6ページ)
■不動尊の掛軸にまつわるエピソード
そんなある時、団がいつものように不動尊の掛け軸を掛けようとしたところ、どうしたことか、風帯(ふうたい。掛物(かけもの)の天地の天の部分に下げた帯)が掛け軸の背後に巻かれてしまい、矢筈(やはず。踏み台を使わずに掛け軸を掛けるための棒状の道具)で下ろそうとしても、なかなか下がってこない。どうしたものかと思っていると、事務所から電話がかかって来て、すぐ来てくれと言う。火事が起こっていた。扇風機のある建物が焼けている。その真下は一番石炭が出るところだ。大変な騒ぎになっている。幸い、火はすぐに消し止められた。また、築造中の小築港では、満潮のところに、風のために堤防が崩れ、港内に水が入ってくる、とこれまた騒ぎになっていた。幸い、小築港の箇所はほぼ出来上がっていたため、大事には至らなかった。
そして明治27(1894)年4月3日には、勝立坑開削成功祝賀会が行われ、打ち上げ花火、団が趣味としていた謡曲の舞台のみならず、大牟田の町に初めての西洋音楽隊が博多から呼ばれるなど、町全体が歓喜の渦に溢れたという。
■団琢磨と不動尊の掛軸の不思議な巡り合い
仏の加護を強く感じた団はその後、もともと掛け軸を所有していたとされる「興山寺」の所在を調べ始めた。掛け軸そのものは高野山の僧からもたらされたものだというので、高野山を訪ねた人に聞いても、そのような寺はなかったと言われた。しかしよくよく調べてみると、「興山寺」は実際に高野山にあった寺だった。高野山の正式な僧侶ではなかったものの、木の実や草の根だけを食べる「木食戒(もくじきかい)」という厳しい修行を行った僧侶・木食応其(もくじきおうご、1536〜1608)が安土桃山時代に高野山中に興した寺だった。室町時代以降の高野山は、学僧と行人(ぎょうにん。修行や寺内の諸事を行う僧)との対立が激しく、荒廃していた。しかし僧兵の力は強く、天下人の織田信長(1534〜1582)・豊臣秀吉(1537〜1598)にとっては、大きな脅威だった。幸いなことに1582(天正10)年に本能寺の変が起こり、信長の攻勢を免れたものの、高野山陣営は、1585(天正13)年に根来寺(ねごろじ。現・和歌山県岩出市)を攻略した秀吉と対峙しなければならなかった。