三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード (4/6ページ)
その時、学僧でも行人でもなく「客分」であった応其が、高野山を代表して秀吉の陣に赴き、折衝を行った。その結果、秀吉側から高野山への攻撃がなされることはなかった。しかも秀吉は、応其へ強い信頼を寄せた。そのため応其はその2年後に、秀吉の使いとして薩摩(現・鹿児島県)に赴き、島津氏の降伏を勧めるなど、秀吉の片腕として大いに活躍した。また秀吉は、高野山中に金堂・大塔を建立させたり、興山寺・青厳寺を開創させたりして、高野山復興の尽力したのである。
しかし時を経て、明治時代初期の廃仏毀釈によって、興山寺は廃寺となる。そこで寺内のある僧侶が不動尊の掛け軸を持って、大阪に移り住んだ。そこでその僧侶が偶然、藝州(げいしゅう)藩(現・広島県広島市)の大阪詰めだったある武士が有していた万年青(おもと)の盆栽に心を奪われた。そこで掛け軸とその万年青とを交換した。掛け軸を手にした武士は、後に福岡に移住した。その子孫が生活に窮したため、掛け軸を古物商に売ることとなる。そして最終的に団が手に入れた…。
こうした不動尊の掛け軸との不思議な巡り合いに、更に感動した団は、毎月28日の不動尊の縁日に必ず不動尊をお祭りするようになったという。
■ちなみに不動尊とは
不動尊こと不動明王の「不動」とは、梵語のヴィデャーの訳語で、本来は「知識」を意味するものだった。その後、呪文・真言・陀羅尼を指すようにもなっていったことから、「明王」とは、呪文を司る王者、または呪文の中の王、すなわち、すぐれた呪文を指すようになったという。しかも、供物を火中に投じて神に捧げ、息災・増益(そうやく)・調伏(ちょうぶく)・敬愛などを願う護摩の修法において、祈りの対象として、仏・菩薩・明王・天部など、数ある本尊の中から、特に不動明王が選ばれ、多くの人々に親しく信仰されてきた。それは多くの人々が、観音・地蔵菩薩などに優しさを求めるのと同時に、団のように、不動明王の剛健ぶりに強い期待を寄せていたことが大きな理由であるとされる。
■三井財閥の指導者となった団琢磨だったが…
三池炭鉱のみならず、日本全国の三井が有していた昔ながらの「ヤマ」が統合され、明治26(1893)年、石炭生産と供給を一手に担う一大組織・三井鉱山合名会社になった。