三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード (5/6ページ)
その翌年、団は専務理事に就任し、鉱山部門のリーダーとなった。団は1年の半分を東京、残りの半分を三池と、忙しく行き来した。その後、明治42(1909)年、三井財閥の本社として三井合名会社が設立されると、団は参事に就任した。そして大正3(1914)年、理事長となった団は三井財閥そのものを率い、工業化を含む多角的事業展開を指導する立場となっていた。しかし、組織の巨大化ゆえに、昭和4(1929)年の金解禁、その翌年から1年続いた昭和恐慌の嵐の中で、三井財閥の存在そのものが社会的反発を引き起こしていた。団は三井に対する攻撃の矢面に立たされた格好で、昭和7(1909)年3月5日、東京・日本橋の三井本館前で、要人の「一人一殺(いちにんいっさつ)」というテロリズムによる国家改造を目指した暗殺グループ「血盟団(けつめいだん)」のひとりに狙撃され、亡くなった。
■死を予感しつつも死を恐れることはなかったという団琢磨
自らの死を予期していたのか、仏の導きか、「その日」近くの団は、例になく仏事に関係する言行が多くなっていたという。例えば団の原宿の屋敷内に移築された文殊堂に入り、周囲の者に「ぼくは遠からず勤務を辞めてこの堂内に籠り、経文でも為して見たいと思う」と言っていた。また、死の2週間前には、妻と建築家の仰木魯堂(おおぎろどう、1863〜1941)と共に郊外の国分寺(現・東京都国分寺市西元町)まで遠出し、寺内の遺跡より掘り出した古い瓦の断片を集め、もっと見つけようとひとりで藪の中をさまよった。2月9日に前大蔵大臣の井上準之助が暗殺されていたことから、護衛の者が団を止めるほどだった。しかし団は「こんなところまで出かけて来ないだろう」と笑って、潮干狩りに夢中になる子どものように瓦の破片を集めて喜んでいたという。
しかも団は「自分は悪いことはしていない」からと、テロリストを恐れることなく、出勤の際に防弾チョッキをつけることを拒否し、人通りが多い三越側の入り口を使うのを止めなかった。それはかつて、三池炭鉱勝立坑開削における不動尊の「加護」を信じていたためだったのだろうか。