三井財閥の元最高指導者「団琢磨」の生涯とある一幅の掛軸とのエピソード (1/6ページ)
奇跡的に命を救われた。ありえない幸運を手にすることができた…そのようなことをかつて日本人は、「仏の加護」と思い、ありがたいことだと感謝していた。
「加護」とは、仏や菩薩が慈悲の心から、妨げられることのない不可思議な作用を及ぼして、衆生に利益(りやく)を授けることを言う。このような「仏の加護」の例として、かつての三井財閥、そして現在の三井グループになくてはならない人物のひとりだった、団琢磨(だんたくま、1858〜1932)が所有していた不動尊の掛け軸にまつわるエピソードを紹介する。
■三井三池炭鉱の経営を任された団琢磨
団は福岡藩士神屋宅之烝・やすの四男に生まれたが、明治3(1870)年に同藩の団家の養子に迎えられた。その翌年、旧藩主黒田家による給費留学生に選ばれ、渡米。マサチューセッツ工科大学の鉱山学科に学び、8年後に帰国。教員生活の後に工部省(1885年廃止)に入省。当時官営だった福岡の三池炭鉱の鉱山局に勤めた。
そこで勝立(かつだち)坑の開発に当たり、懸念となっていた湧水問題解決のために欧米に視察に赴く。その間、三池炭鉱は三井組に払い下げられたが、帰国後の団は明治22(1889)年、三池炭礦社の事務長に就任した。
湧水のあまりの多さ、それによって生じる多大な人的・経済的損失ゆえに、三池炭鉱の経営そのものを疑問視する重役もいた。しかし団は、三池炭礦社の運命は、勝立坑開発の成否にかかわっていると強く確信していたため、首脳陣を説得し、当時高性能を誇った排水装置である、イギリスのデーヴィー社製のポンプ2台を購入させ、坑道内に設置させた。
その結果、掘削時の大洪水発生などの問題が一気に解決した。更に団は、三池港の築港にも関わり、後の巨大石炭コンビナートを形成した大牟田(おおむた)地域発展の礎を築いたのだ。
■一方で書画骨董に強い興味を持っていた団琢磨
しかも団は「技術畑」「経営畑」だけの人間ではなかった。大阪専門学校(現・京都大学総合人間学部、岡山大学医学部)での教員時代に知己を得ていたアーネスト・フェノロサ(1853〜1908)の影響から、書画骨董に深い興味関心を寄せていた。