巨人対阪神「“新監督”血の抗争」長嶋茂雄VS野村克也の代理戦争勃発! (4/5ページ)

日刊大衆

そんな憧れや羨ましさが裏返しになり、むき出しのライバル心に変わったんだと思いますよ」

〈長嶋が太陽の下で咲くひまわりなら、どうせオレは日本海で夜に咲く月見草〉 野村氏が残したこの名言も、「ねたみ・ひがみ・うらみを込めて1か月考えた」と後年、自ら明かしている。

 そんな野村氏に対し、長嶋氏のほうはどうだったのか。前出の元記者は、こう証言する。

「当時のミスターにとって、ノムさんは単純にパ・リーグの有力選手の一人。それほど特別な意識はしていなかったようです。ただ、ミスターが第二次政権で巨人の監督になり、野村ヤクルトと戦うようになってからは、ちょっと変わりましたけどね……」

 そう、2人は現役引退後、今度は同じリーグで戦う監督として、再び敵対関係となっているのだ。

■乱闘騒ぎにも発展して

 1993年、長嶋氏が13年ぶりに巨人監督に復帰。すると、すでに90年からヤクルトの監督を務めていた野村氏の“打倒長嶋”も復活する。「“カンピュータ”だの“審判を味方につけている”だの、野村監督はとにかく徹底的にミスターを挑発する発言を繰り返しました。ミスターが表立って反撃することはありませんでしたが、顔を合わせる場面では完全無視。近しい関係者には“ヤクルトに負けると腹が立つ”と、こぼしていたそうです」(デスク)

 もはや両者のライバル関係は、かつてのような一方的なものではなくなっていた。そして、指揮官同士の対立は、やがてチームをも巻き込んだ遺恨となる。94年5月。神宮球場での試合で事件は起きた。発端は2回表。打席に立った村田真一が、ヤクルト先発の西村龍次から頭部にデッドボールを受け、退場したことだった。「前年からヤクルトの投手陣は、内角の厳しいところをガンガン攻めていたんです。それだけに、巨人ベンチは怒り心頭でした」(当時の番記者)

 続く3回裏。打席に入った西村に、今度は巨人の木田優夫が死球を与える。誰の目にも明らかな“報復”だった。「7回には、またも西村が打者のグラッデンの頭近くに投球。これにグラッデンが激怒。

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