90年代死体ブーム:ロマン優光連載127 (1/4ページ)

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90年代死体ブーム:ロマン優光連載127

ロマン優光のさよなら、くまさん

連載第127回 90年代死体ブーム

 90年代の死体ブームというのは、今考えても変な感じがします。

 昔から死体に関して興味がある人は一定数いて、死体目的で戦争写真や医学写真などを集める人はいました。しかし、こういう人は世間では「ただの変態」として見なされていて、アングラなエロ本で死体写真が掲載されたり(80年代の『Billy』(白夜書房)の死体写真は埋め草に使われているサブカルコラムと一緒に載ってるだけで、単に「売れるから」という商業的理由で掲載された「ポルノ」に過ぎない)、『夜想』「屍体 幻想へのテロル」(ペヨトル工房・82年)のように、死体を通した文明論や死体愛好家の異常心理に関する考察がサブカルチャーの領域に存在することはあっても、90年代の死体ブームのように死体写真を鑑賞することが表立って大きなブームになるなんてことはなかったんですよね。それ以前のことを考えてみると、藤原新也氏の『東京漂流』(情報センター出版局・83年)の死体写真が話題になったとしても、本音はどうであれ、その写真を藤原氏が与えた意味性から切り離して、大っぴらに喜ぶようなことをする人はあまりいなかったんですよ。そういう思いがあっても、そういうことではしゃぐのが恥ずかしい行為であることが自覚されていたのだと思います。それが布施英利氏の『図説・死体論』(法蔵館・93年)になってくると、明らかに著者の意図を切り離して消費されているわけで。賛否両論は避けられないでしょうが、死体写真家の釣崎清隆氏の場合も独自の思想から死体写真を通じての表現を真剣にやろうとしていたわけです。しかし、氏の死体写真を消費する側に、それを表現として認識できている人、作品として考えられていた人はどれだけいたのでしょうか。「死体を通して生の意味を云々」みたいなやつをお題目みたいに唱えてる人も多かったですが、それも単なる露骨な建前でしかなく、全然隠せていない。そういえば、「お前ら、本当は死体見て発情して、はしゃぎたいんだろ!」と社会に対して子供っぽい挑発をするのが、80年代からの青山正明氏(『危ない1号』編集長)のスタンスだったとは思います。

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