田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(2) (1/3ページ)

週刊実話

田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(2)

 小沢佐重喜代議士の急逝により、長男の一郎を後継と決めた佐重喜後援会だったが、では、自民党のどの派閥に預けるかで難渋した。

 佐重喜は藤山(愛一郎)派所属だったが、3度目の総裁選出馬で敗れた藤山の“凋落”ぶりは歴然、これでは若い一郎の将来に不安ありで、まず藤山派入りが消えた。その間隙を縫うようにして、佐重喜と同じ岩手県出身の鈴木善幸(のちに首相)や、夫人が岩手県出身というツテを活かしての大平正芳(のちに首相)ら前尾(繁三郎)派、あるいは水田(三喜男)派などが「責任を持って一郎君の面倒を見る」と、誘いの手を入れてきた背景もあった。当時は派閥全盛の時代、各派は“増強”に躍起だったのである。

 しかし、最終的に「一郎は勢いのある政治家につけるべき」との声が高まり、佐藤(栄作)派幹部としての田中角栄に“白矢”を立てた。時に田中は、すでに大蔵大臣、自民党政調会長などの要職を踏み、その勢いから近々の総理・総裁候補に間違いなしとみられ、「日の出の幹事長」との声があったのだった。

 昭和43(1968)年の秋口、一郎は母・みちと後援会長の3人で上京、平河町の砂防会館内にあった田中角栄事務所を訪ねた。初めての田中、小沢の出会いの場である。

 当時、田中の“金庫番”にして、のちに「越山会の女王」と謳われることになる秘書の佐藤昭子は、筆者にこう語ってくれたことがあった。
「あのときの“イッちゃん(一郎)”は詰め襟の学生服姿で、とても初々しかった印象があった。田中の迫力もあってか、ほとんど何もしゃべらなかった。田中とのやりとりは、『君は何年生まれか』『昭和17年です』『ああ、ワシの死んだせがれと一緒だ』といった程度、ほんの短いものだった」

 ここで田中が、「ワシの死んだせがれと一緒だ」とつぶやいたのは、数え6歳で病死した長男・正法を意味している。正法の誕生から2年後に生まれたのが、長女・真紀子(のちの外相)である。

 正法の死は相当にショックだったようで、当時、田中は田中土建工業社長として花街の神楽坂によく出入りしていたが、筆者は田中の座敷によく出ていた芸者のこんな証言を聞いている。
「田中先生は、当時は『おヒゲさん』の愛称で芸者衆からとても人気がありました。

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