美空ひばり没後30年、知られざる「不死鳥お嬢伝説」 (4/5ページ)

日刊大衆

 特に、母親の加藤喜美枝とは“一卵性親子”ともいわれた。ひばりの最大の理解者で、演出家で、プロデューサーだった母だが、芸能界しか知らず、どこか浮世離れしていた。

 ひばりのマネージャーを長年務めた嘉山登一郎氏は、著書『美空ひばり秘話 俺のどうにか人生』(近代映画社)の中で、信じ難い逸話を披露している。

 1965年(昭和40年)に、台湾公演を行った際、蒋介石総統夫人(宋美齢)から、夕食会への誘いを託された人物がやって来た。

 ところが、事務所のマネージャーが不在で、蒋介石も宋美齢も知らない喜美枝は、なんと……、「ひばりに会いたかったら、そっちから来ればいい」と断ってしまったというのだ。

「あのお母さんなら、十分にありえる話ですね(笑)」(芸能プロ関係者)  

 戻ってきたマネージャーは、国家元首夫人からの誘いを、失礼な物言いで断ったことを知ると、「これはまずい!」と考え、翌朝6時の飛行機で緊急帰国するように取りなした。

 ちなみに、ひばりサイドの態度に総統夫人の側近たちは激怒した模様で、翌朝8時以降、ひばり一行を出国させないために、一時、空港を閉鎖する動きがあったという。

 ひばりには2人の弟がいる。上の加藤益夫は「小野透」、下の武彦は「花房錦一」として芸能界入りしている。「加藤家には、“家族以外は信用しない”という家訓のようなものがあった。だから、弟があのようなことになっても、突き放さなかったんです」(前出の西川氏)

 ここでいう“弟”とは益夫のことだ。16歳で歌手デビューし、映画にも主演。ところが、歌も映画も不調で1962年(昭和37年)に引退すると、賭博幇助、拳銃不法所持、傷害、暴行など刑事事件を立て続けに起こす問題人物だった。

「ところが、喜美枝さんとひばりさんは、1969年(昭和44年)に「かとう哲也」の名前で芸能界復帰を促し、ひばり公演にレギュラー出演させます」(同)

 しかし、益夫はその後、またも暴行容疑で逮捕され、さらに山口組系組織の幹部であることが発覚。

「結婚会見の頃とは時代が変わっていました。

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