差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】 (2/5ページ)

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他にも日米協会の設立(大正六1917年)や日米関係委員会の幹事就任(大正七1918年)など日米親善に重要な役割を果たし、ワシントンで開かれた第1回国際労働会議(大正八1919年)や海軍軍縮会議(大正十1921年)にも出席するなど、日米間を往復したそうです。

また、大正十一1922年にはイギリス・ドイツ・フランス・イタリアを歴訪、排日運動の緩和を訴えるなど、各国との協調に奔走しました。

帰国後「国際社会に向けて、日本への理解を深めるために英文出版が必要だ」と感じた重治は大正十三1924年に国際出版印刷株式会社を創立、積極的な情報発信を展開します。

幻となった東京市オリンピックのポスター。Wikipediaより。

また、東京市会議員に当選後は「平和の祭典を主催することで、国際社会との融和を図ろう!」と東京市オリンピック(昭和十五1940年開催予定)の誘致に走り回ります。

※その後、国際情勢の不安定化(昭和十二1937年に勃発した支那事変の影響など)から、結局開催には至りませんでした。

刻々と不穏な様相を見せる国際社会、そして列強によって追い込まれる日本を予見・危惧した重治は国政への進出を志し、昭和五1930年の衆議院選挙で故郷・山梨県から立候補するも、強固な支持基盤がなかったため残念ながら落選してしまいます。

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