差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】 (3/5ページ)
阿部信行。Wikipediaより。
その後も諦めずに挑戦し続けて苦節六年、昭和十一1936年の衆議院選挙で念願の初当選を果たして以来当選3回、阿部信行(あべ のぶゆき)内閣では拓務参与官として、植民地の経営や海外へ移住した邦人のサポートに当たりました。
任期中、英語で弁が立つ重治は国際会議の場でも重宝され、列国議会同盟会議(第32回ハンガリーのブダペスト、第34回オランダのハーグ)や万国議員商事会議(ポーランドのワルシャワ)では議員団の一員として日本の国益と国際協調を訴え続け、次第に戦争の色が濃くなっていく世相に一石を投じ続けたのでした。
避けられなかった戦争と、重治の挫折さて、日本人にとって忘れることの出来ない大東亜戦争が始まったのは、昭和十六1941年12月8日。
ついに始まってしまった戦争(真珠湾攻撃)。Wikipediaより。
そんな中、重治が何をしていたかと言えば、どうにかして戦争を回避しようと、開戦ギリギリまで日米の要人たちを説得し、世論を喚起するべく渡米。各地で講演会を開き、得意の熱弁を奮っていたのでした。