田中角栄「怒涛の戦後史」(10)事業の師・大河内正敏(下) (2/3ページ)

週刊実話



 一方、海外移民の道もあるが、いかに立派な移民政策を行ったところで、それのみによって100万人の増加人口を処理し得ないことは明白である。この人口増加を、もっと弊害の少ないように活用していかんとするところに、農村工業の重大なる社会的意義が存するのである。

 筆者(注・大河内自身のこと)はいま、一昨々年8月から、自動車の部品のごく簡単なものを越後柏崎で造っている。若い農村の女子ばかり400人ほどを集め、鉄を溶かして鋳物とし、それを削って仕上げるまで、全部すべてをやらせている。その結果は、自動機械で造るよりも、精密なものがはるか余計にできる。また、女子たちの働きぶりをみると、想像の及ばないくらい上手である」

 そのうえで、柏崎の理研のピストンリングの工場は、陸海軍の飛行機エンジンの主要部品として大増産するため、なんと従業員は1万人を数えたのだった。

★「理研関連票」での初当選

 そうした大河内の「農村工業」に強い影響を受けた田中が、初めて総選挙に立候補したのは、昭和21(1946)年4月の戦後第1回目のそれであった。このときはしかし、「カネがある候補」ということで、選挙関係者からさんざん食い物にされたことも手伝い落選した。

 それからちょうど1年後の昭和22年4月、「2・1ゼネスト」を機に戦後第2回目の総選挙があった。田中は前回の選挙に懲り、当時の「田中土建工業」の出張所を柏崎と長岡に設置、地元から100人近い社員を採用して、“直営選挙”に戦法を切り替えたのだった。

 また、一方で大河内の了解を得て、のちに田中とは「盟友」関係になる当時の理研の柏崎工場長である星野一也の全面的な協力のもと、選挙区〈新潟3区〉内の理研グループ関連会社の従業員プラスその家族約3万人の支援を受け、ここに初当選を飾ることができた。得票数は3万9043票だったが、じつにその4分の3が「理研関連票」だったことが分かる。

 その田中は、初当選の翌年、1年生議員にして法務政務次官に就任するが「炭管汚職事件」で逮捕された。一審は有罪だったが二審で無罪を勝ち取った昭和27年、大河内は田中の無罪を喜びながら74歳で人生の幕を閉じたのだった。
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