田中角栄「怒涛の戦後史」(10)事業の師・大河内正敏(下) (1/3ページ)
弱冠19歳、「共栄建築事務所」を設立した田中角栄は「理研コンツェルン」の総帥・大河内正敏の信用を得、理研グループの工場建設、設備の設置などの仕事を次々と引き受けるようになっていた。
大河内が、田中に「(新潟の)柏崎は『農村工業』の発祥地で、私の一番好きなところだ」と語ったように、グループの工場建設は柏崎を中心に、新潟各地へと広がっていた。ために、社長の田中自ら柏崎、小千谷などにも頻繁に出張した。これにより、新潟の地理、風土などの全体像が頭に叩き込まれたことで、のちに政治家となったときに、陳情の際の差配、選挙戦略の立て方などに大きく役立つことになるのである。
そうした一方で、田中のなかでは大河内の「柏崎は『農村工業』の発祥地」という言葉が耳から離れず、これがのちの「田中政治」の集大成たる「日本列島改造論」の、発想の源流ともなったのだった。
大河内の「農村工業」とは、どういう意味だったのか。一言で言えば、都市と地方の過密、過疎、そこから来る経済的格差の是正を目指すため、地方(農村)から都市への人口の流出を防がなくてはならない。そのために、働ける場として「工業」を地方に根付かせる必要があるというもので、まさに、後年の田中の日本列島改造論の中核を成した都市から地方への工場移転促進、工業再配置計画に合致するものだった。
この「農村工業」については元朝日新聞政治部記者の早野透が、その著書『田中角栄』(中公新書)で紹介している。早野は若い頃、朝日新聞新潟支局に赴任した際、田中の政治風土を調べるために、図書館で昭和初年に発行された「越佐社会事業」誌を読んだのだが、その中に大河内が寄稿した「多望な農村工業の前途」とする一文を発見した。
ちなみに、「越佐」とは越後と佐渡を意味し、新潟全体を指すものである。その早野の著書から要約引用させてもらうと、大河内は次のような「農村工業」論を展開している。
「東京近郊の農村では、娘がほとんど東京に出てしまうために、農村に残った青年は妻をめとるのに困難を感ずる。もし、都会に集まる子女が村に踏みとどまって十分に働き得るようであったならば、人口の不自然な移動を防止することができる。