田中角栄「怒涛の戦後史」(12)元首相・佐藤栄作(中) (2/3ページ)
天下取りが視野に入ってきている田中としては、佐藤の信頼をより得るために、なんとしても突破しなければならない「日韓国会」であった。
しかし、この「日韓国会」は大荒れで、とりわけ野党の社会、共産両党が反対で徹底抗戦、結果的には二つの臨時国会を開いてようやく条約批准の可決、成立を果たした。成立へ向けては田中も必死で、単独採決の裏では反対野党の切り崩しにも暗躍するなど、かなり強引な手法も駆使していた。こうした混乱を極めた国会は、衆院の正・副議長が引責辞任という形で、なんとか収拾を見た。
★「佐藤政権の泥はワシがかぶる」
一方で、懸案の「日韓国会」をかろうじて乗り切った佐藤首相は、改めて田中のらつ腕ぶりを買い、翌年8月の改造人事で田中の幹事長留任を決めた。しかし、この2期目の幹事長は、わずか4カ月の短命に終わることになった。閣僚および自民党議員らに相次いで不祥事が発覚するという「黒い霧事件」が勃発し、この責任を取らされることになったからである。
まず最初は、田中彰治という自民党衆院議員が、国際興業の社主・小佐野賢治から1億円を恐喝し、詐欺窃盗なども含めて逮捕され、議員辞職を余儀なくされた。
また、荒船清十郎運輸相が「一つぐれぇいいじゃないか」の“迷文句”で、国鉄ダイヤ改正で高崎線の急行列車を自分の選挙区内の埼玉県深谷駅に停車させるべく、ダイヤ原案を改めさせたことも発覚した。
さらに松野頼三農相が、新婚の娘夫妻らと一緒に外国を“官費旅行”していたこと、あるいは共和製糖グループの政治家絡みの不正融資事件なども明るみに出て、政府と自民党に対する国民の信頼感は、大きく失墜したのだった。
その後の臨時国会は、野党が硬化して審議拒否、佐藤政権としてはここを切り抜けるには衆院の解散という手もあったが、総選挙となれば敗北濃厚である。佐藤首相の選択肢は野党の矛先をかわす残された道としての、大幅な改造人事の断行しかなかった。
結果、“詰め腹”を切らされた格好だったのが、川島正次郎副総裁と田中幹事長であった。幹事長更迭が決まった直後、田中に近い議員からは「直接関係がないことなのに、なぜ幹事長が責任を取らされるのか」と憤りの声が出た。