田中角栄「怒涛の戦後史」(12)元首相・佐藤栄作(中) (1/3ページ)
「田中が生涯で最も充実、生き生きしていたのは、佐藤内閣での幹事長時代だった。まさに水を得た魚で、脂が乗っていた。行動の一つ一つが、自信に満ち満ちていた」
田中角栄の愛人にして秘書、長く「二人三脚」で政治行動をともにしてきた佐藤昭子は、筆者のインタビューに対し、こう答えてくれたことがある。
池田勇人政権で自民党政調会長と大蔵大臣ポストを踏んだ田中にとって、天下取りへの残った必須ポストは、幹事長として党を掌握することであった。昭和40(1965)年6月、池田政権の後継となった佐藤栄作は、第1次内閣の改造とともに党人事にも手を付け、田中を幹事長ポストに就けたのだった。
田中、時に47歳。のちに田中の異名ともされた「コンピューター付きブルドーザー」は、この幹事長時代に定着したものであった。
ちなみに、幹事長への就任が決まった直後の朝日新聞(昭和40年6月2日付)は、田中の「横顔」を次のように評していた。
「佐藤首相が『私の片腕』と呼び、幹事長は総裁派閥からということであれば、当然の人事ではあろう。軽量執行部と呼ばれた政調会長から3年を経て、今日、重量とは言わないまでも、もはや軽量と評する者はいない。一方、決断の早さ、読みの深さ、政財界への顔の広さの三つに裏打ちされた、実行力への評価もある。
ただ、時に行動力がたたっての、勇み足の心配がないではない。若いときから鼻下にヒゲ、浪花節をうなり、将棋を指し、しかしゴルフはダメと新旧両面が同居で、奇妙な魅力を醸し出す。いつも陽の当たる場にいるので、佐藤派の中でも風当たりがやや強くなっているが、ちょっとやそっとではへこたれぬ芯の強さも持つ」
さて、佐藤首相が田中に託したのは、日本と韓国の国交正常化に向けて、日韓基本条約調印への国会における承認と、条約としての批准であった。佐藤は、それまで途絶していた韓国との国交正常化と沖縄の施政権返還の二つを、戦後未処理の懸案として最重視していたのである。
「沖縄返還」を実現させるためには、まずは韓国との国交を正常化し、政権の勢いに弾みをつけることが不可欠という考えであった。