豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】 (3/6ページ)
戦いは信長の勝利、その馬廻である毛利新介秀高(もうり しんすけひでたか)が敵の総大将・今川義元(いまがわ よしもと)の首級を上げたことは有名ですが、『信長公記』によると、当時
「毛利新介が上げた今回の大手柄は、かつて尾張守護・斯波義統が殺された時、その遺児であった長秀(幼君・おさなぎみ)を毛利十郎が保護・養育した冥加(神仏のお取り計らい)だ」
といった噂が流れたそうです。ただ同じ毛利という名字だからか、あるいは毛利十郎と毛利新介は、同じ一族であった可能性も考えられます。
※元服に際して長秀と称したのは、毛利一族の通字である「秀」に信長から賜った「長」を冠したのかも知れません。
その場合、桶狭間時点で長秀は20歳、新介は20~25歳ごろ(推定)ですから、長秀を保護・養育した十郎の年齢を40~50歳と推定すれば、新介は十郎の甥(兄たちの子?)世代に当たります。
毛利「河内守」長秀、赤母衣衆に抜擢されて大活躍さて、桶狭間で立てた武功は信長からの覚えめでたく、長秀は河内守(かわちのかみ)の官途(かんど)を与えられます。
官途とは主君が家臣の手柄に対して官職の私称(朝廷からの公認なく、勝手に名乗ること)を許可することを言い、実際には河内国(現:大阪府東部)を治めていないものの、武家社会では名誉なこととされました。