日本人の感謝は人だけでなく死者やモノ、コト、空間にまで捧げる (2/3ページ)

心に残る家族葬

浅草の浅草寺などで年中行事として行われているが、昭和の昔は家庭で見られる風景であった。

また、野球部の球児たちが球場に一礼をすることや、学校で生徒が掃除することがよく海外で話題になる。武道の道場は基本的に素足であり土足は道場を汚す行為として固く禁じられる。もちろん出入りの際には一礼だ。日本以外でこうしたことはあまりなく、道場もダンスホールも同じ板であり神聖視することはない。考えるまでもなくその方が合理的である。誰もいない空間に一礼をする光景は、最近でこそ日本の美しい道徳、マナーの表現として見直されているが、一見しただけでは理解し難いだろう。

■日本人の感謝とは異なる一神教の感謝

日本人には当たり前のこととして身に付いている人・モノに限らない万物への感謝の心が、欧米では奇異に見られることも多いのは、キリスト教やイスラム教などの一神教の影響が大きいと思われる。

一神教では唯一絶対の神のみに価値を置く。それ故「神の似姿」である人間と、動物・自然の間に序列が生まれ、感謝の祈りを捧げるべきは天にまします神のみとなる。プロテスタントでは人は死後に天に召され、神の下で安らかにいるとされるので、祈りは人ではなく神のために捧げられる。 葬儀の祈りにも神への感謝と遺族を慰めるために行われるのであって、故人に向けられるものでない。まして安らいでいる故人は感謝の対象にはならない。

■人間と自然の序列

自然に対しても同じことである。キリスト教的世界観にとって自然崇拝は野蛮な異教の思想だった。地上のすべては唯一神が創造したものであるから、自然は序列では人間の下に位置する汚れた存在だったのだ。

キリスト教教会は布教の際に土着の信仰を巧みに取り込んでいった。一例としてイースター(復活祭)がある。元々ドイツなどの地方では、春分の日は太陽が夜に打ち勝つ太陽の復活を祝う祝祭で、多産の野ウサギを豊穣のシンボルとして春の訪れを祝った。そこにキリスト教が布教され、太陽の復活はキリストの復活に差し替えられた。イースター名物のウサギはかつての自然信仰の名残である。唯一神の権威を確立するためにも自然崇拝は排除するべきものだったのだ。

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