歴代総理の胆力「池田勇人」(3)とてつもない「強運」の持ち主 (1/2ページ)
池田内閣が進めた「所得倍増計画」は、当初目標の10年を経ずして、昭和43(1968)年の7年目にして達成された。弾みのついた経済の高度成長は、次の佐藤(栄作)政権の中期に熟成を見、昭和48(1973)年秋の「オイル・ショック」まで続くことになる。
池田内閣を支え続けた大蔵省の後輩二人の、なぜ「所得倍増計画」が成功したのかについて、こんな述懐がある。
「あの頃の日本の置かれた状況で、日本人が持つ知識に、労働、技術、貯蓄力をうまく活用していけば、10年間に実質所得が倍にならないはずがないという思いがあった。言うならば政治より経済、花より団子に国民の意識を振り向ける一つの契機になった政策だった」(池田内閣で外相、官房長官の大平正芳)
「(池田は)世間からは剛球投手と思われていた。しかし、たくらんで強引に推し進めたということでなく、一つは岸さんが退いて世の中が静かになり、一種の“おこり”が落ちたようなということか、スッと静かになった。だから、政治的な面ではフォロー・アップは必要ないというか、一種の虚無感みたいな状態だった。これが、池田さんがスッと所得倍増のほうへ入っていけ、そのまま走ることができたゆえんだ」(池田内閣で経済企画庁長官の宮沢喜一)
振り返れば、池田勇人という人物は、とてつもない「強運」の持ち主だった。自ら抱えた不治の病とされた難病と妻の死、余儀なくされた大蔵省退官という人生のドン底から、奇跡の復活を果たしたからであった。その背景は、いくつか窺える。
その最も大きな要因は、時の実力者だった吉田茂総理大臣との出会いであった。
池田は大蔵省復職のチャンスを得ると、ナニクソ精神で徹底的に「税」を勉強、大蔵省に「池田あり」で知られるとともに、“回り道組”にしては異例の主税局長から次官にのぼり詰めた。この能力に、吉田の目が止まったということだった。これに合わせ、吉田は役人にしては珍しく性格が豪放磊落、誰にも好かれる明るい性格を買ったようであった。
ために、吉田は1年生代議士の池田を大蔵大臣に、大抜擢もし、自らの政権下では通産大臣、自民党政調会長・幹事長と、次々と要職に就けたのだった。