田中角栄「怒涛の戦後史」(17)元社会党副委員長・三宅正一(上) (2/2ページ)
「田中も地べたをはいずって上がってきた人間、三宅さんとは政党も違い敵対することもあったが、同じ郷土の“戦友”としてどこか心を許し合い、互いに畏敬の念を持ち合わせていた。まさにライバルにして同志でもあった。
田中の〈新潟3区〉での初出馬では、三宅さんからこの地で選挙を勝ち上がるためには、何が必要なのかを教えてもらっている。三宅さんは、『選挙運動は陽の当たらぬ辺境の地、農村部へ入ることだ。そして、直接、住民の肌に触れてみることだ。気取りのある人にはできない。君、それがやれるか』と。田中は、そんな三宅さんの言葉を愚直に実践し、知名度不足を補って当選にこぎつけた」
★「体には気をつけろよ」
やがて、田中が天下を取ったあとの昭和51(1976)年12月に「ロッキード選挙」があり、田中は背水の陣で雪の〈新潟3区〉内を走り回った。都市部から山間部、1日十数回の街頭演説をこなした。
このとき田中と三宅は、次のようなエピソードを残している。
田中が街頭演説をやっている傍らを、三宅が乗った選挙カーが通りかかった。すると、三宅は選挙カーを停めさせ、降りて田中に近づくと耳元で「体には気をつけろよ」と言った。そのあと、三宅はまた選挙カーの人となったが、田中はマイクを持ったまま、こう語気を強めたのだった。
「この選挙は、われわれは絶対に負けるわけにはいかないッ。しかし、みなさん、農民の恩人である三宅先生だけは落選させてはならないですよ。落選させるようなことがあったら、これは新潟県人の恥になるのであります!」
選挙の結果、田中はメディアなどの大方の予想を裏切り、16万8000票超を獲得してダントツのトップ当選、「越山会」の結束の強さを再認識させるとともに、ロッキード事件逮捕という「みそぎ」を、一応は果たした格好だった。
一方の三宅はというと、根強い“三宅ファン票”すなわち5万票はあるとされた固定票を手堅く固めて5万4000票、定数5の3位当選を果たした。
しかし、三宅はその後の昭和55年6月、時に大平正芳首相が選挙期間中に急死した衆参ダブル選挙で、落選を余儀なくされた。さしもの社会党の闘士も、年齢からして引退危機に追い込まれたのである。
こうした失意の三宅に対して、田中は郷土の「戦友」「同志」として、なんとも“角栄流”の手の差しのべ方をするのだった。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。