田中角栄「怒涛の戦後史」(17)元社会党副委員長・三宅正一(上) (1/2ページ)

週刊実話

 小選挙区制に移る前の衆院中選挙区制時代の〈新潟3区〉で、田中角栄は生涯16回の当選を重ねた。田中は保守系の民主党から初当選、やがて「保守合同」による現在の自由民主党に参加、その自民党で実力者への階段を駆けのぼり、ついには天下を取った。

 一方、この〈新潟3区〉には、「農民運動のシンボル」として10回の当選を重ねたあと、社会党副委員長、衆院副議長になった三宅正一がいた。

 三宅は、岐阜県の地主の息子で早稲田大学に進んだが、同校では、東大の「新人会」と並ぶ学生の二大社会主義思想団体だった「建設者同盟」の創設メンバーになった。当時の農村は地主と小作人の階層対立が激化し、小作人たちがつくる日本農民組合(略して「日農」)が活動を開始、早大の「建設者同盟」のメンバーは小作争議を応援するため、手分けして全国の農村に散らばっていた。

 新潟に入ることになった三宅は、ここで演説をブチ続けた。検挙歴7回、三宅の演説会には常に警官が10人ほどおり、時に「弁士中止ッ」と発言を制することもあった。こうしたことを契機に、やがて三宅は〈新潟3区〉で社会党から立候補、田中と議席を争うことになるのである。

 さて、社会党支持の「日農」は農地改革を指導、かつての小作人たちもこれにより自分の田んぼを持つようになると、この地、新潟での農民の支持は、「日農」から「越山会」へと流れを変えていった。すでに、田中は〈新潟3区〉内に住民、選挙民の要求を「陳情」として吸い上げる組織として、後援会「越山会」をつくり上げていたのである。

「日農」も「越山会」も、いずれも農民が支える組織として“同根”ではあったが、前者が“戦う集団”だったのに対し、後者は“現世利益”を求めるという大きな違いがあった。田中は“現世利益”として、豪雪苦による開発の遅れからの脱却を目指し、次々と手を打っていた。そのため〈新潟3区〉の農民は「日農」すなわち社会党支持から「越山会」を率いる田中支持へとスライドしていった。

 こうした中での田中、三宅の関係について、「越山会」を最高幹部として仕切っていた本間幸一は、こう語っていたものだった。

「田中角栄「怒涛の戦後史」(17)元社会党副委員長・三宅正一(上)」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る