実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】 (4/5ページ)
また、景親は平清盛(たいらの きよもり)から「東国の後見(こうけん。実質的な支配者)」を任されており、その自負や矜持、それを裏づける実力も持っていました。
弱小だった頼朝公をただその場で殺すのは簡単だけど、あえて泳がせることでより大きな戦略の誘引剤に利用してやろう……石橋山で頼朝公を見逃した景親の判断には、そんなスケールが感じられます。
エピローグ……しかし、景親の目論見は「ある男」の存在によって根底から覆されてしまいます。
上総国(現:千葉県中部)で二万騎と称される大勢力を誇っていた上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が、頼朝公の将器に「男惚れ」して臣従を誓いました。それがキッカケで坂東じゅうの武士団が「源氏有利」と判断、こぞって頼朝公に味方してしまったのです。
それでも「東国の後見」の務めを果たすべく謀叛の鎮圧に死力を尽くした景親ですが、もはや坂東の趨勢は決して衆寡敵せず、また京の都から来る予定だった平家の援軍も遅れたため、治承四1180年10月23日、ついに頼朝公の軍門に下りました。
奇しくも石橋山の合戦(同年8月23日)からちょうど2か月。こんな短期間で、こうまで逆転してしまおうとは、景親はもちろん頼朝公ですら思わなかったかも知れません。