武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【中】 (3/5ページ)
嘉彰親王の腰には賊軍を平らげる節刀が佩(は)かれ、そしてその頭上には違方(まごうかた)なき官軍の証である錦旗が燦然と翻りました。
【越後国を制圧するまでの道のり】
7月7日
敦賀港(現:福井県敦賀市)に到着、帆船富有丸(ふゆうまる)に乗り組んで出航
7月9日
今町港(現:新潟県上越市)から上陸。高田、柏崎、新潟を経て新発田へと進軍
8月11日
村上城を攻略したことで、越後国全域を制圧(残党は出羽に脱出し、庄内藩と共に抵抗)
ここまで旗本隊は嘉彰親王の護衛で前線に出ておらず、甲賀隊が「このまま武勲を立てずば、武士へのお取り立てもままなるまい」と焦っていた9月4日、いよいよ旗本隊に最前線への出撃命令が下ったのでした。
いよいよ最前線へ!庄内藩の猛烈な銃撃を受ける任務の概要は、羽越(現:山形県と新潟県)国境にある関川口(現:山形県鶴岡市)で交戦中の岩国藩(現:山口県)と高鍋藩(現:宮崎県)を援護するというもの。
関川口を守る軍勢は、かつて徳川四天王の一人として恐れられた酒井忠次(さかい ただつぐ)の末裔である酒井忠篤(ただずみ)が指揮をとる庄内藩。
東北でも有数の強豪藩として知られ、この時点で多方面から攻められているにも関わらず、新政府軍を一歩も領内に踏み込ませない善戦ぶりを見せていました。
「……面白い。それほどまでの強敵ならば、相手にとって不足なし!」
ここぞ手柄の立てどころ、とばかり喜び勇んだ旗本隊は明治元1868年(※8日に慶応から改元)9月11日、大雨の中を夜陰に乗じて三里(約12km)進軍したところ、庄内藩からの熱烈な歓迎、すなわち猛烈な銃撃を喰らいます。