一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】 (2/6ページ)

Japaaan

「主君を差し出せ」だと?追い詰められた経幹、ついにキレる

さて、経幹は幕府との仲介役を頼もうと薩摩藩の高崎兵部五六(たかさき ひょうぶごろく)と福岡藩の喜多岡勇平(きたおか ゆうへい)に根回しをします。

「我が長州藩は誠に不本意ながら朝敵となってしまったが、元来尊皇の志篤き我ら一同、錦旗に弓ひくつもりなど毛頭なきゆえ、どうかお取り成し願いたく……」

薩摩藩も福岡藩も、本心では戦などしたくないため「長州が謝罪すれば、赦す=戦争を回避するよう幕府に取り成す」旨を申し出ます。

「ありがたい。それでは、その謝罪について……」

交渉した結果、長州藩の謝罪条件は以下の通りとなりました。

一、禁門の変を主導した三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹
一、同じく四参謀(佐久間佐兵衛、宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎)の斬首
一、「七卿落ち」以来長州で匿っていた五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放

七卿落ちを警護した吉川監物(経幹、赤丸の人物)。彼らを見捨てるのは忍びないが……

長州藩は粛々と三家老と四参謀の処分を執行。しかし11月16日、処刑された七名の首実検が行われた時、幕府の大目付である永井尚志(ながい なおむね)が言い出します。

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