一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】 (4/6ページ)

Japaaan

一、藩主父子による謝罪文の提出
一、新拠点・山口城の破却(全部とは言っていない)

かくして謝罪は受け入れられ、第一次長州征伐は戦闘に至ることなく12月27日(1865年1月24日)に終結。波瀾万丈な元治元年はこうして暮れていったのでした。

ところで、これまでの交渉に際して経幹は抵抗しない意思を示すため、寸鉄一つ帯びずに敵陣の真っただ中に赴いており、その覚悟と豪胆を称えた人々が

「神か仏か 岩国様(領主=吉川経幹)は 扇子一つで 槍の中」

と歌った都都逸(どどいつ。七七七五の歌)が現代に伝わっています。

幕府軍が四方向から攻めて来た!四境戦争(第二次長州征伐)では芸州口を死守

明けて元治二1865年は昨年の社会不安を受けて4月7日に慶応と改元されましたが、一度「長州を征伐する」と言っておきながら実現できず、長州の謝罪を受けたとは言えメンツを潰された幕府は、このまま黙っている訳には行きませんでした。

一方で長州藩も「武備恭順(ぶびきょうじゅん。従いはするが、武力は備える)」をモットーに再軍備を進め、幕府からの藩主引き渡し要請をはぐらかし続けると同時に、周辺諸藩に対して工作活動を展開(いわゆる薩長同盟もその一環)。

「もはや交渉の余地なし」と決断した幕府は、慶応二1866年に長州へ宣戦布告。6月7日の屋代島(周防大島)砲撃によって第二次長州征伐の火蓋が切って落とされたのでした。

東西南北から包囲され、約10万人以上の大軍が攻め込んできたため、長州藩では「四境戦争」と呼んだそうですが、幕府軍を迎え撃つ長州藩は約3~4千人と、25倍以上の兵力差に絶望しか感じられません。

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