長嶋茂雄「六大学新記録と南海を逆転した巨人スカウト陣の秘策」 (2/5ページ)
「頑張って、もっと練習に励まなければダメだ」
手紙は息子を叱咤する内容だったというが、長嶋は一読して、「なんだか、いつもの父らしくないな……」と感じたという。長嶋の不吉な予感は的中した。リーグ戦が終わった6月2日の練習中に、「チチキトク」の電報が届いたのだ。新人リーグ戦が始まる6日前のことだった。
父の利さんは、帰らぬ人となった。葬式をすませ、寮に戻ってきた長嶋は、新人戦で3番を打ち、5試合で22打数5安打。悲しみに耐え、活躍を見せた。
長嶋が大器の片鱗を見せたのは、2年生の秋のリーグ戦のことだった。早立(早大VS立大)戦の1回戦。早大のエース・木村保(のちに南海入り)から、レフトの芝生席に弾丸ライナーを叩き込んだのだ。長嶋の六大学リーグでの初ホームランだった。この日、長嶋は初めて4番を任されたが、このとき、恩師の砂押邦信監督の姿はなかった。野球部でクーデターに遭い、監督を退いていたからだ。
秋のリーグ戦、長嶋は3割4分3厘で3位の成績を残した。その活躍が認められ、12月10日からマニラで行われた第2回アジア野球選手権の六大学選抜チームに選ばれる。この大会で長嶋は打率5割、長打率9割5分8厘と打ちまくり、一躍、六大学を代表するスラッガーへと成長した。
才能を開花させた長嶋に、プロ野球のスカウトも注目するようになっていった。当時、立大野球部のグラウンドがあった東長崎(東京都豊島区)はもちろん、千葉の臼井(現在の佐倉市)の実家にも、スカウトが日参するようになった。3年生の春には初の首位打者(4割5分8厘)。秋にはホームランを3本打って、立大野球部の新記録(通算7本)に迫った。プロスカウトの長嶋争奪戦も、激化の一途をたどっていった。
巨人は長嶋の兄の武彦に食い込んでいた。阪神は立大OBの佐川直行スカウトが、足繁く東長崎のグラウンドを訪れていた。実は、長嶋は幼少の頃から阪神ファンだった。「物干し竿」と呼ばれた巨大バットでホームランを量産した、藤村富美男に憧れていたからだ。
大映のオーナー・永田雅一は、夫人を臼井の長嶋宅に派遣している。乗ってきたベンツを家の前には停めさせず、電車できたように見せるなど、長嶋家に配慮させたという。